生みの苦しみ(ふつうエッセイ #382)

2022年は、ライターとして多くの原稿執筆に関わっている。

書くことは好きだが、書くことが得意かと言われれば「No」だ。文章の巧拙というよりは、わりと遅筆な性格ゆえの自己認識である。

「遅い」というのは、色々な場合において苦しみを伴いやすい。すぐに思い出すのは、マラソンを始めたばかりで参加したフルマラソンのこと。途中で体力が尽き、5時間半ものろのろと走る羽目になった。少し走っては、歩く。その繰り返しで、身体がどんどんと重くなっていく。

同じ距離を3時間半で走ったときと比べて、完走後の疲労度はまるで違う。時間がかかることによって、身体中への負荷が余計にかかっているのだろう。

執筆も同じだ。時間がかかることによって「生みの苦しみ」がじわじわと身体を締め付ける。生むことは、もちろん苦しさを伴うわけだけど、できることならもうちょっと楽をしたい。良い意味で。

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……ここまで書いたけれど、苦しまずに何かを生み出せる人っているのだろうか。工場の大量生産のように、バシバシと「商品」を生み出していく。それが新しい価値を生んでいるのかはさておき、それらは需要があって、多くの人たちの購買を促している。

そう考えると「生む」とは何だろうか。少なくともクリエイティビティが伴うものは「生みの苦しみが必要だ」と強弁してしまいがちだけど、軽やかにスポーティに、何かを生み出せるとしたら良いなと思う。

「生みの苦しみが必要だ」という常識には縛られない。そんな生き方も、めちゃ素敵である。