子どもたちの様子が見えないため、日々の小さな変化には気づいてあげられない。「会いたい」と言われても、すぐには会えない。「今度いつ会える?」と電話で聞かれても、「お父さんと相談してみるね」としか言えない。離れているぶん、できることは限りなく少ない。でも、ゼロじゃない。
数少ない面会時間、たまに話す通話時間、そこで出来得る限り、直球で気持ちを伝えよう。そう、決めた。
「愛している」が本音だけれど、子どもに伝えるにはいささか重い言葉だ。だから「大好き」に変換して、長男にも次男にも惜しみなく伝えた。朝となく昼となく伝えられる「大好き」に、次男は素直に喜び、長男は「うざい」と言いつつも口元は緩んでいた。
たとえ離れていても、毎日一緒にはいられなくても、人は人を愛せる。
それはきっと、子育てに限った話ではないのだと思う。恋人であれ、友人であれ、家族であれ、物理的距離を飛び越えても伝えたい想いがあるなら、言葉にして届ければいい。届けられない日には、空に向かって祈ればいい。
現在の住まいであるアパートから車で15分ほどのところに、お気に入りの神社がある。そこを訪れるたび、眉間にシワが寄るほどの真剣さで、息子たちの健やかな成長を祈っている。
怪我をしませんように。病気になりませんように。道路に飛び出しませんように。無理はしても無茶はしませんように。毎日笑って過ごせていますように。
どうか、健やかで幸せでありますように。
ぎゅっと合わせた手のひらを額にこすりつけ、ひたすらに拝む。もはや祈りというより、念力に近い。以前、友人の隣で拝み倒していたら、「必死じゃん」と笑われた。そう、必死なのである。どんなに離れていても、一緒には住めなくても、私はあの子たちの母親で、あの子たちを愛していて、それだけはこの先何があっても変わらない。だから必死に、できることをする。大したことはできない。それでも、想いは伝わっている。
「おかあさんってさー、おれたちのこと大好きだよね」
その問いかけに私がなんて返すのか、次男は分かっている。分かっていて、答え合わせがしたいのだ。だから私は、いつも同じ答えを、彼らに手渡す。
今の私にできる、母親としての精一杯。彼らがいつか大人になったら、何は覚えていなくとも、この想いだけは、覚えていてほしい。
「当たり前じゃん。大好きだよ。だって、お母さんだもん」
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