親が我が子に注ぐ愛は、無償の愛だと誰かが言った。でも、私にはそうは思えない。むしろ、無償の愛を持ち合わせているのは、親の私ではなく息子たちのほうではないかと思っていた時期がある。特にそれを感じたのは、彼らに「許された」瞬間だ。
私が彼らに謝るのは、大抵が“怒り過ぎた”と感じる場面である。
あんな言い方しなきゃよかった。大きな声を出すべきじゃなかった。もっと冷静に諭せばよかった。
後悔が胸のなかで渦巻くたび、己を守りたい一心で、情けない言い訳が顔を出す。
だって、何度も注意したのに。最初から強く言ったわけじゃない。疲れていたんだからしょうがない。
後悔と言い訳がせめぎ合い、言い訳に軍配が上がるときもある。そんな日の息子たちは、とても悲しそうな顔をしていた。私は、ちっとも“良い母親”じゃない。彼らの沈んだ顔を見るたび自己嫌悪に陥り、寝顔に謝っては頬を濡らした。起きているときに目を見て伝えなければ、なんの意味もない。ただの自己満足に過ぎないとわかっていながら、泣き疲れて眠る我が子の坊主頭を、そっと撫でた。
こんなにもポンコツな母なのに、私がひとたび「ごめん」と頭を下げたなら、彼らは笑って許してくれる。
そんなに簡単に許してくれるの?
思わずそう問いかけたくなるほど、彼らはすんなりと私の謝罪を受け入れる。かくいう私は、彼らの「ごめんなさい」を素直に受け入れられない。「何度同じことを言わせれば気が済むの」と、思うだけにとどまらず、言い放ったこともある。
「ごめんなさい」という言葉は、口に出すのに勇気が要る。それをわかっていながら、私は幾度となくその小さな勇気を跳ね返した。今になってみれば後悔しきりなのだが、幼子の育児は想像以上に大変で、当時の私にはあまりにも余裕がなかった。
謝れば許してくれる。何があっても笑いかけてくれる。そういう息子たちを見て、子が親に向ける愛情こそが「無償の愛」だと一時は思っていた。しかし、ある事実を思い出し、背筋が凍りついた。