最期には、何かしょうもないフレーズを、次の世代に残すくらいがちょうどいい (片山壮平さん #4)

公文教育研究会に就職したあとは関東に住むようになったので、祖母のいる岡山の実家には年に数回しか帰らなくなった。ある時、公文で学習療法という認知症の予防メソッドが開発され、高齢者向けの計算ドリルが発売になったので、これはもってこいだと祖母にプレゼントした。後で母に様子を聞くと、ドリルに直接書き込まず、チラシの裏紙などに答えを書いて、何度も何度も解いているという。そんなに好きなのであれば、と、姉がニンテンドーDSと計算ドリルのソフトをプレゼントした。祖母はこれにも非常に熱心に取り組み、DSを折りたたむヒンジが壊れるまで使い倒した。母曰く「戦争で小学校も満足に卒業できなかった人じゃから、取り返そういう気持ちがあったんじゃねえんかな」とのことだ。

やがて、実家の様子を聞くにつけ、祖母がいよいよ年老いていくのが分かるようになった。庭先で転倒したのをきっかけに、習慣にしていた朝晩の散歩ができなくなり、寝たきりとまではいかないが、ほぼ終日部屋にいるようになった。トイレが近くなり、車の移動を嫌がるようになったので、外出ができなくなった。より耳も遠くなり、テンポの早い家族同士の会話に参加することはなくなっていった。実家近くのデイケアセンターにスポットで通うようになった。祖母も90歳代、両親も70歳を越え、いよいよ老老介護の様相を呈してきたからだ。実家の近くには姉と兄が居を構えるとは言え、日々の対応は常に両親が行っていた。私はといえば、積極的に地元に戻ることもなく、変わらず関東を拠点に暮らしていた。

そんなある日に、父からの連絡にひどく驚いた。もう100歳を迎えようかという祖母が引っ越すという。関西に住む、叔父のところに。経緯をよく聞くと、私からはそれまで見えていなかった光景が立ち上がってきた。

そもそも、祖母は後妻だったという。祖父は父が小学生の時に亡くなっているが、父は前妻との子で、叔父は後妻である祖母との子どもだった。祖母、父、叔父の間にそのことに起因する軋轢など微塵も感じることはなかったし、軽いものも含めて諍いさえ聞いたこともなかったので、聞かされるまで全く思いも及ばなかった。血の繋がりということで整理するのならば、私は幼少期、それが無い祖母と大変多くの時間を過ごしていたということになる。父はたいへん義理堅く、徹底的に筋を通す人間である。おそらく、長男としての役割を全うしようと、何十年もかけて、祖母との関係を築いてきたのだと思う。母は、奇しくもそれに付き合うこととなった。私は、何の違和感もなく関わることができた。しかし、その長い家族の時間の中で、私から見えていたのはただ一方向の角度からの祖母であったのかもしれない。

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