旬を過ぎる。(ふつうエッセイ #355)

生鮮食品には、食べ頃がある。

一番美味しいタイミングで食べることは望外の幸せであり、生きる希望だといっても過言ではない。(ちょっと過言かもしれない)

そのタイミングを逃すことを「旬を過ぎる」というが、食べ物以外にも使われることがある。

なにか流行していたものがあったとして、それが盛り上がりのピークを過ぎたとき。企画を立てる際に「あれはもう、旬を過ぎたよね」という話になってボツになることも。実際は知名度もそれなりにあるので、旬を過ぎたからといってボツになる筋合いもないのだが、まあ確かに、「食べ頃」のタイミングで企画が進むに越したことはない。

一方で、「人間と旬」が結びつけられることもある。世の中のトレンドと同じように、「あいつは旬を過ぎた」「もう旬を過ぎたので引退するしかないだろう」というような言い方だ。自分で記していても癪に障るというか、ずいぶんな言い方だなと思う。

たとえばプロ野球選手。打撃賞を獲得するほどのスラッガーも、長いスランプに陥ることはある。もちろん長くアベレージの高い成績を収めるのが「プロ」という見方もあるけれど、自らの身体を資本としている限り、100%コントロールすることはできないはずだ。あらゆる理由が重なり、成績が落ち込んでしまう。周囲はいう「あいつは旬を過ぎた」と。

だが旬を過ぎたと思われていた選手が、再度ブレイク果たすケースはいくらでもある。確かに若い頃のように多くのホームランを望めないかもしれないが、シュアなバッティングでチームの勝利に貢献する。中日ドラゴンズで45歳現役として2軍で汗を流す福留孝介さんも、何度も再ブレイクを果たしてきた。そういった事例は枚挙に遑がない。

そういった「失礼やろ」みたいな感覚ももちろんあるけれど、人間の「旬」を易々と見極められるんだというスタンスの方が浅はかではないだろうか。スポーツ選手はたしかに体力面の限界があるけれど、ビジネスパーソンやクリエイターは、体力だけが絶対的な変数ではない。むしろ体力がなくても、素晴らしいアウトプットを出すことが可能だ。

「あいつは旬を過ぎた」

親しい者同士の軽口だったとしても、その言葉には「食べ頃」というものがない。食えない言葉を吐くほど、あなたは余裕を有しているのだろうか。