心配、心配り(ふつうエッセイ #277)

「心配」という言葉がある。

この言葉に「り」という文字を付与することで、「心配」とは違った印象を与える。これこそ、日本語の不思議な魅力の好例だろう。

心配というのはどちらかといえば不安な気持ちを、心配りは相手に対する思いやりの気持ちを表す。

まるで違うようだけど、根っこの部分は同じかもしれない。とある出来事があって、そんな実感を得たのでエッセイにしてみる。

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今日、ぼくはとある申告書類の提出を行なった。

えらそうに書くことでもないのだが、ずっと申告を忘れていたものだ。昨日「忘れてますよ」と電話を受け、慌てて提出に向かったというわけだ。

その場所では、昨日電話をくださった方が待機してくれていた。別に時間を指定していたわけではなかったのに、ランチタイムの時間帯にも丁寧に説明をしてくれた。僕は「すみません!」と平謝りを繰り返しただけだったけれど、彼女(女性でした)は、記載場所や記載の仕方まで、感心してしまうほどの心配りで対応してくれた。

思うのだけど、彼女は、思いやりの気持ちで対応してくれたのではない。ただただ僕の稚拙さが、心配だったのではないだろうか。もちろん思いやりもあったと思うけど、「ああ、この人はちゃんとサポートしないと話にならない」と心配に思ってくれたからこそ、丁寧に対応してくれたのだ。

心配と心配りは違った意味の言葉だけど、突き詰めれば同じ「出発点」にあるのかもしれない。あるいは表裏一体で、心配はいつでも心配りに転じるし、逆もまた然りだ。

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彼女のおかげで、無事に提出を終えることができた。

空を見上げると雲ひとつない快晴だった──とはならず、梅雨特有の雲が広がっていた。

雨が降る心配をして、いそいそと帰路につく。この場合も、僕のどこかに、何らかの心配りの感情はあったのだろうか?