過去を考えること(ふつうエッセイ #346)

投資家の藤野英人さんが、「超未来志向なので過去のことを考えるのは非常に苦手」と投稿していた。謙遜した発言だとは思うが、過去を考えることについて駄文を記してみたい。

投資家にとって、投資するか否かの判断基準は「これから儲かりそうか」だ。人格的に素晴らしい経営者だったとしても、未来で通用するビジネスモデルを有していなかったら、大切なお金を預けることはできない。ハイだろうが、ローだろうが、リターンを見込めないビジネスに投資するのは、どう考えたって無謀だ。

だが「これから儲かりそうか」を判断するにあたって、未来だけを見つめていても仕方がない。経営者がこれまでどんなキャリアを歩んできたのか。それこそ過去に自ら上場した経験があるのならば「この人ならお金を預けても大丈夫」という判断になる。

ビジネス以外では、どうだろう。

最近、時代の流れがどんどん速くなって「過去」のことに目がいかなくなっているように思う。なんなら「あいつは過去のことでガタガタ言ってるよ」というような冷笑を浴びせられることもある。過去のちょっとした不祥事など、未来を考える上で些細なことだなんて風潮はあまりに危険だ。

実は、未来のことを考えるのは簡単だ。イメージすれば良い。正しいかどうかなんて誰も分からないから、「将来はこんな社会になってます」というのが言いやすい。言っても(その時点では)間違いではないのだ。

過去のことを把握するのは、手間がかかる。過去は「事実」として存在していた経緯があるわけだから、そこに事実として正しいかどうかある程度は検証可能だ。もちろん大昔のことは想像する余地があるけれど、通説としてまかり通っていることも多い。それを知らなかったり、無視したりすると「無知な人」という扱いを受ける。

という経緯もあって、どんどん未来思考を名乗る人が増えているような気がする。過去にこだわるよりも、未来のことを考える人の方がスマートに見える。なんだか、それっぽい。でも、それって本当にスマートなのだろうか。

過去を考えることを、馬鹿にしてはいけない。

苦手だといって、思考停止するのは「格好悪い」ことだと思った方が良い。

藤野さんのことは大好きだけど、遠方から、戒めの念を送りたいと思う。伝わると良いな。