人は変われるか。(ふつうエッセイ #396)

ケース・バイ・ケースだけど、僕は、人はきっかけさえあれば変われると信じている。

「きっかけさえあれば」と書いたが、そういったきっかけを得る機会が少ないのが現状だ。だからこそ、結果的に変われないということが多々あるんじゃないかと思っている。(「人は変われない」というケースを多く見るからこそ「本質的に人は変わらないよ」という意見や達観に繋がってしまうのではないだろうか)

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かつてお世話になった人が、少年犯罪に手を染めた青年たちに向けた、再犯防止のプロジェクトに携わっている。プログラムの一環として、とある民間会社の教材を扱っているのだが、彼らは半年間で目に見えて成長を遂げたという。

青年たちは、「勝手に自分はできないと決めつけていたけど、やればできるとはじめて思えた」と発言したそうだ。そこにはかけがえのない自己受容や自信の姿勢が垣間見える。

誰しも、生まれたときは、オギャーとしか泣けない赤ん坊だ。

最初から極悪人の性質を持って生まれた子どもなどいない。成長過程で社会と接点を持つ中で、少年犯罪に手を染めてしまったというのが大半のケースだろう。そこには、幼少期の暴力の影があることも少なくないそうだ。

本来であれば、社会モデルとして少年犯罪に向き合う必要がある。けれど、「(犯罪抑止のために)罰を重くすべきだ」といった声は根強い。(もちろん被害に遭った人たちが実際にいるわけで、そういった人たちの声に寄り添う必要もあるのだが)

少年犯罪は、そのセンセーショナルな性質から過剰に報道されることも多い。でも実のところ、少年事件の件数は減少の一途を辿っている。

しかし一方、いわゆる少年院で更正したはずの青年たちの再犯率は22.7%(2015年時点)であり、その数値は2000年からほぼ横ばいだ。もちろん再犯の中身は人それぞれなので一概に語ることはできないが、改善の余地は大いにあるだろう。

参考 少年院の更生現場に密着 その後の支援と課題とはNHK クローズアップ現代 全記録

さらに、少年犯罪や少年院に関するルポルタージュなどを読むと、再犯率が上向かない理由をプログラムだけのせいにするのはフェアでないと感じてしまう。おそらく、更正した青年たちを受け入れる社会の側にも問題がある。

履歴書に、前科の有無を正直に書くことができるか。

残念ながら、正直に書いている人はほとんどいないらしい。それは正直に書くことによって、企業から、ほぼ間違いなくリジェクトされてしまうからだという。

もちろん、過去から現在や未来を類推することは大切だ。

企業が「良い人材」を欲するとき、とりわけそれほど実績のない人たちを採用するにあたり重視するポテンシャルには、「過去どんなことをしてきたか」という点が貴重な材料になる。

だが、本来見るべきは、現在の姿である。改め正すという意味の「更正」は、過去犯した罪を真摯に受け止め、正しい方向へと進み直すことを意味している。もちろん、少年院によって100%更正されたとは言えない人も中にはいるだろう。

ただ、社会の側も「更正」する余地はないだろうか。

根強く残る、先入観や偏見を是正すること。あるべき未来に向けて、現在をフラットに眺めることが大切ではないか。

過去と現在は地続きにある。しかし連続でなく、非連続の出来事によって、飛躍的な変化を遂げるケースは、多かれ少なかれ、誰だって思い至ることがあるはずだ。

だからこそ、「人は変われる」という期待を抱くようにしたい。楽観過ぎるかもしれない。でも、その可能性に賭ける人生を歩んでいきたいと思うからこそ、良い意味での楽観姿勢を持っていたいと思う。