見当違い、じゃない(ふつうエッセイ #270)

大学生のとき、「情報処理」という科目があった。

僕は2003年に大学に入学したのだが、新入生はほぼ例外なく受講する授業だった。春学期の間、パソコンの使い方から、ホームページの作り方まで徹底的に叩き込まれる。

当時は嫌で嫌で仕方なかったけれど、あのとき基礎的な知識が叩き込まれたことで、これまで僕はけっこう得をしてきたように思う。

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簡易なホームページを作ったことで、僕は「日記」を更新することにした。

サークルの先輩が何人も更新していて、とても面白かったからだ。僕もクスッと笑えるような日記が書けるんじゃないか。そう思って、コツコツと更新を続けていた。

サークルの仲間や同級生が、ときどき感想を言ってくれたりして嬉しかったが、1年ほど経つとリアクションの薄さを残念に感じた。積極的に「読んでくれ!」といえる代物でもない。だけど多少は読まれている感覚がほしかった。当時Google Analyticsのような分析ツールもない。アクセス数を確認できるツールはあったが、僕はもっと読まれている感覚を得たかった。

孤独を感じていたのかもしれない。

ありがたいことに、間もなくSNSというものが登場する。

ソーシャルネットワーキングサービス。日記が誰に読まれたのかが分かる「あしあと」機能、日記に気軽に感想を述べることのできる「コメント」機能。これらは、僕が感じていた孤独をかなり和らげていた。

いまでも、昔と変わらずせっせと文章を作っている。たまに「これって、よもや見当違いなのでは?」と思うことがある。実際、見当違いであることも多々あるのだろう。

しかしSNSでリアクションがあるたびに、「ああ、間違っていない」と感じることができた。

SNSの功罪は、すでに腐るほど世の中に示されている。でも、僕個人の肌感覚は、それらとは別の地平にある。コツコツと組み上げてきたからこそ、薄っぺらい評論では包括できない個人的経験がある。

そういう個人的な経験を、僕はどれだけ積み重ねているだろう。積み重ねていきたい。きっと、その過程は見当違いではないと思うから。