泣くとき(ふつうエッセイ #253)

自らを涙もろい性格だとは思わないが、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観ると3回は泣いてしまう。

映画の場合、泣かせどころのようなシーンがあって、そこで感情が動くことがある。あからさまに泣かせようという作意には興醒めするけれど、筋がきっちりと通っていれば、自然と涙は溢れてくる。

映画でなくとも、泣くときはある。

しかし、どうして人間は泣くのだろうか。

悲しいときに泣くのは間違いないけれど、では何を悲しいと思うのだろうか。

残念なことに、幼い子どもが命を落としてしまうニュースを耳にしない日はない。たとえば交通事故で命を落としてしまうとき、僕は何に対して悲しいと思うのだろうか。

幼い子どもが「痛い」とか「苦しい」とか、そういったことに対して感情移入することは、もちろんある。

それに加えて、幼い子どもの親とか家族とか、そういった人たちにも思いを馳せてしまう。やや淡白な表現になってしまうが「泣く人を見て、泣く」ということだ。悲しいと思っている人に、思いを馳せてしまうのだ。

何かに対して悲しむことを一次的な悲しみと呼ぶしたら、悲しんでいる人に対して悲しみの感情を寄せることは二次的な悲しみと呼べるだろう。同じ「悲しい」という感情だけど、その悲しみの細部や源流は、まったく異なる。当事者としての悲しみと、非当事者としての悲しみには違いがある。それは「どちらが悲しむべき」とか「こっちの悲しみの方が大きい」とか、そういった議論をしたいわけではなく、ただただ悲しみのタイプが違うということを明示しておきたいと思ったのだ。

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悲しみでなく、面白いと思う感情も同様だ。

面白さにも、一次的な面白さ、二次的な面白さがある。

だけど「面白い」という感情には、感性のようなものがかなり含まれていて、悲しみに比べると価値というか、意義の違いが鮮明にある気がしてならない。

例えば先週末に公開された、映画「シン・ウルトラマン」。

映画館で観たとき、本当にあなたの琴線に触れて面白い(つまらない)と感じたのか。それとも誰かの批評や感想、あるいは庵野秀明という人のキャリアの影響を受けて面白い(つまらない)と感じたのか。

同じ面白い(つまらない)という感情だけど、種類は異なる。

SNSは「権力者の権威性を高めるツールだ」と言った人がいた。その危険性があると、僕も同意する。

自分の感性を、他人に委ねてはいけない。どんなに周りが酷評していたとしても、センスがないと蔑まれても、自分が面白いと思うならば、それを貫いていくべきだ。「あの人が面白いといったなら、たぶん面白いんだろう」と思うのは構わないけれど、それを自分の面白さとして無批判にトレースしてはいけない。

人間は、流されやすい生き物だ。

そのことに十分留意しつつ、近々「シン・ウルトラマン」を観に行こうと思う。