髪の毛をいじる(ふつうエッセイ #239)

高校生のとき、四六時中、髪の毛をいじっていた。ような気がする。

当時僕は男子校に通っていて、異性を気にする必要なんてなかったはずなのだけど、ワックスで固めた髪型の微調整を繰り返していた。

この微調整は意味が全くない。むしろ逆効果だ。ワックスが付着していない指で髪の毛をこねくり回しても、固まっていたワックスが落ちてしまうからだ。休み時間にワックスを持ってトイレで整えた方がよほどマシなのだけど、そういった再調整を試みた記憶はほとんどない。不思議なものだ。

そこで思考を進めてみる。

つまり、髪の毛をいじるというのは、髪型をセットしたいわけではなかったのではないか。

安心したかったのか。でも安心感を得たいのであれば、今も髪の毛をいじっているはずだ。だから安心感を得たいというのは、本エッセイでは却下しておく。

僕の結論は、ちょっとした違和感を拭うような行為がしたかったというもの。ポジティブを積み上げるというより、ネガティブを払拭するもの。そう考えると合点がいくのだ。

同じような行為で、分かりやすい例は、上場廃止が決まった株を売り買いする行動。この株式の株価は最終的にはゼロに落ちることが決まっている。なのに、わずかな利鞘をめぐって売り買いを重ねていく人たちがいる。

そこに何の意味もないように思えるけれど、意味があることをするというのはポジティブな行為だ。

だけど、わずかな利鞘を得たいと考える人たちは、もちろんお金を狙っているのだけど、自らにまとわるネガティブな部分を擦り切っていくような感覚なのではないだろうか。1円単位で変わっていく株価を見定めながら、安心と不安を行き来しながら、ネガティブを限りなく抑制していく。そこに意味はないけれど、意味がない方が自然なのだ。

髪の毛をいじる、という行為も同じようなものだ。

そこに意味はない。だけど、意味がない方が自然なのだ。

だから「意味がない」行動を、一律で糾弾するのは間違っている。僕たちは、意味がない行動を、快くやってしまう生き物なのだから。