アスファルトの路面標示の文字は、可読性が低かったためしはない。
とまれ、駐車禁止、優先……
どれも惚れ惚れするような統一感で書かれている。一定のレギュレーションがあり、それをみなが律儀に守っている証拠だ。
こういったレギュレーションがなかったり、レギュレーションがあっても守らない業者がいたとしたら、公道における通行はかなり危なっかしいものになるだろう。交通事故の加害者も「標示の文字が読めなかったので」という理由が通れば情状酌量の余地が与えられる。「読めなかった」としたら当然その判断は妥当なのだけど、未然に防げなかった「罪らしきもの」は誰が背負うだろう。
やはり、当然守られるべきことは、当然守ってほしいものだ。
その願いを、今のところ、ほとんどの業者が守っている事実をきちんと認識しておきたい。
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町に出れば、掲示されている文字のほとんどは、だいたい読める。
ときおり英語の筆記体で書かれている文字は読めないが、日本に住んでいる大人であれば、だいたいの文字は読めるはずだ。それは当然、相手が「読める」ための文字を掲示しているからだ。いくら格好良くても、相手に伝わらなければ意味がない。ミス・コミュニケーションにつながってしまう。
文字ひとつひとつには、かくして細心の注意が払われているけれど、文字量が異常に多いデザインは、未だ、世の中にたくさん存在する。
ある一定の配慮はあるけれど、デザインという意味では、まだまだ「ふつう」に読める状態に至っていないものも多い。(敢えて「読ませない」ことを目指しているケースもあると聞く)
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こうして駄文を綴っている僕だって、例外ではない。
「綴っている」と書いたけれど、「つづっている」と読めない人だっているだろう。
意識しようとしなかろうと、人間の作為は、誰かを容易に排除する可能性に満ちている。それを「仕方ないことだ」とか「分かる人に届けば良い」とか、そう思ってしまっても良いのだろうか。
僕は、否と唱えたい。
駄文とはいえ、どんな人でもアクセスできる環境のもと、僕はテキストをパブリックにしている。
誰にとっても、等しく、読まれたい。
そう、思っているからだ。
漢字を最小限にするのもひとつの手だろう。実際、そのように難解な漢字を「ひらく」のが一般的とされている。
だが僕は思うのだけど、「綴っている」と「つづっている」は、同じではない。
こうして文章を書いているとき、僕の思いに近しいのは「綴っている」という感覚なわけだし、本意をズラして記述するのは誠実ではないような気がするのだ。
そんなことを、いちいち考えながら文章を書いている。その営みは、これからもまだまだ続くだろうし、試行錯誤に終わりはない。
だからこそ僕にとって、書くことは、とても楽しい。
37年間生きてきて、ようやく楽しみに至れる物事に還ってきたという心地がする。幸せで、豊かなことだと僕は思う。