アスファルトの路面標示(ふつうエッセイ #218)

アスファルトの路面標示の文字は、可読性が低かったためしはない。

とまれ、駐車禁止、優先……

どれも惚れ惚れするような統一感で書かれている。一定のレギュレーションがあり、それをみなが律儀に守っている証拠だ。

こういったレギュレーションがなかったり、レギュレーションがあっても守らない業者がいたとしたら、公道における通行はかなり危なっかしいものになるだろう。交通事故の加害者も「標示の文字が読めなかったので」という理由が通れば情状酌量の余地が与えられる。「読めなかった」としたら当然その判断は妥当なのだけど、未然に防げなかった「罪らしきもの」は誰が背負うだろう。

やはり、当然守られるべきことは、当然守ってほしいものだ。

その願いを、今のところ、ほとんどの業者が守っている事実をきちんと認識しておきたい。

*

町に出れば、掲示されている文字のほとんどは、だいたい読める。

ときおり英語の筆記体で書かれている文字は読めないが、日本に住んでいる大人であれば、だいたいの文字は読めるはずだ。それは当然、相手が「読める」ための文字を掲示しているからだ。いくら格好良くても、相手に伝わらなければ意味がない。ミス・コミュニケーションにつながってしまう。

文字ひとつひとつには、かくして細心の注意が払われているけれど、文字量が異常に多いデザインは、未だ、世の中にたくさん存在する。

ある一定の配慮はあるけれど、デザインという意味では、まだまだ「ふつう」に読める状態に至っていないものも多い。(敢えて「読ませない」ことを目指しているケースもあると聞く)

*

こうして駄文を綴っている僕だって、例外ではない。

「綴っている」と書いたけれど、「つづっている」と読めない人だっているだろう。

意識しようとしなかろうと、人間の作為は、誰かを容易に排除する可能性に満ちている。それを「仕方ないことだ」とか「分かる人に届けば良い」とか、そう思ってしまっても良いのだろうか。

僕は、否と唱えたい。

駄文とはいえ、どんな人でもアクセスできる環境のもと、僕はテキストをパブリックにしている。

誰にとっても、等しく、読まれたい。

そう、思っているからだ。

漢字を最小限にするのもひとつの手だろう。実際、そのように難解な漢字を「ひらく」のが一般的とされている。

だが僕は思うのだけど、「綴っている」と「つづっている」は、同じではない。

こうして文章を書いているとき、僕の思いに近しいのは「綴っている」という感覚なわけだし、本意をズラして記述するのは誠実ではないような気がするのだ。

そんなことを、いちいち考えながら文章を書いている。その営みは、これからもまだまだ続くだろうし、試行錯誤に終わりはない。

だからこそ僕にとって、書くことは、とても楽しい。

37年間生きてきて、ようやく楽しみに至れる物事に還ってきたという心地がする。幸せで、豊かなことだと僕は思う。