屋上の特別感(ふつうエッセイ #16)

屋上は特別な場所だった。

子どもの頃、特別な理由がないと立ち入れなかったからだ。

施錠されていた記憶がある。大人の目が届きにくい場所だったし、生徒が誰でも入れる仕様になっていたらトラブルは頻発していただろう。性善説とか性悪説とかの話でなく、環境的にクローズせざるを得ないということだ。

だから、稀に開催された屋上での授業には浮き足立ってしまった。決して楽しげな場所ではないのだけど、普段行けない場所に入れるのは、妙な背徳感があった。

屋上開催の授業で憶えているのは、太陽の観察だ。太陽を見るため専用のメガネを装着し、太陽の方に視線を送る。「肉眼で太陽を直接見たら目を痛めてしまう」という注意があった。諸々注意を重ねての授業であるはずなのに、メガネ越しの太陽は、ただただ黒光りする丸で拍子抜けした。

学校に限らず、屋上がある建物はまあまあ存在する。近所の商業施設は、屋上が憩いの場になっていて、天気が良い日はなかなか快適だ。地上から高いところにあり、空気の澱みもほとんどない。全方位で景色が見渡せるわけではないのだが、開放感をふんだんに味わうことができる。

屋上に比べて、地上は日常に溢れている。

地に足をつける、という諺があるように、地面(地上)は、日常性が高いメタファーとして用いられる。

だからといって、地上がふつうで、屋上が特別、というコントラストで語るべきものでもないと、僕は個人的に思う。屋上が特別である、という想いは人それぞれが内に秘めた特別感であり、その秘め方みたいなものは至ってふつうの心境から生まれていると思うからだ。

疲れたとき、屋上に行って空を眺める。そんなささやかな行為が、屋上をふつう的に特別化させていくのだ。