遠い経験、近い経験(ふつうエッセイ #183)

磯野真穂さんの近著『他者と生きる〜リスク・病い・死をめぐる人類学〜』を読んでいる。

8章構成のうち、まだ3章までしか読めていない。だが現時点で、すでに今年を代表する1冊だと確信している。

世間で「一般的」とされている思考の枠組みとは一線を画す論旨。ぼんやりと抱いていた社会に対する違和感が、ぎゅっと輪郭を成すような驚きにも満ちている。

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さて、本書には「遠い経験、近い経験」という言葉が出てくる。

人類学者のクリフォード・ギアツさんの著書『ローカル・ノレッジ─解釈人類学論集』から引用したものだ。英訳するとExperience-near, Experience-distant、もとは精神分析家のハインツ・コフートさんによる概念だという。

本書をもとにざっくり説明すると、

近い経験:自分が見たり感じたりすることを表現する際に、自然に無理なく解釈できる概念のこと
遠い経験:専門家によって科学的、哲学的、また実際的目的を果たすために用いる概念のこと

同じものでも、人によって近い / 遠いは分かれる。例えば宗教は、多くの日本人にとっては「遠い経験」だが、仏教やイスラム教などを熱心に信仰する人たちにとっては「近い経験」となる。

勘の良い人は分かると思うが、日本人は少しずつ「近い経験」を失いつつある。「遠い経験」にシフトしているという言い方が正確かもしれない。

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例えば「オミクロン株は重症化しないから、大したことないだろう」という言説。それが正しいかどうかはさておき、「遠い経験」に基づく所感であることは疑いないだろう。(感染症の専門家は別にして)

一方でオミクロン株に罹患し、40度近い熱にうなされたことがある人(や家族)は別の所感を持つだろう。「死ぬかと思った、めちゃくちゃつらいよ」という所感は、身体的な実感を伴う「近い経験」である。

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人間には想像力がある。

ロシアがウクライナに侵攻し、ウクライナの人々に同情する気持ちを世界中は一斉に持った。だが一部の国や地域を除き、戦争体験を「近い経験」として実感している人は多くない。同情できるのは、人間が持つ想像力の豊かさによるものだ。

だけど、想像力や論理的思考が特定の方向に進み、自らの身体的感覚が希薄になってしまったらどうだろう。

ジョナサン・モストウ監督、ブルース・ウィルスが主演を務めた映画「サロゲート」では、人間がクローンに社会での行動を頼るという世界が描かれている。本体としての人間は自宅で眠り、仮想としてのクローンが外で生活をする。人間は自分が望む姿形になれる一方で、そこで出会う様々な物事への身体的感覚は、ない。(ただ映画では、そのクローンが破壊されると、本体である人間の命も失われるという仕様になっていた)

サロゲート的な世界は、訪れたとしても、だいぶ先の未来だろう。

だが、サロゲート的な思考は、もうすぐそばに来ているような気がする。「遠い経験」と上手く付き合い、身体的感覚をきちんと持てるような生き方をしていきたい。

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