工事をたどる(ふつうエッセイ #169)

週のはじめ。

通っているコワーキングスペースで、ソファに座りながら今週のタスクを確認する。1秒でも早く仕事に取り掛かるべきなのだが、やみくもにMacBookを叩いても仕方がない。

緊急度の高い仕事はあれど、優先度の高い仕事にも着手したい。のんびりし過ぎるわけにはいかないけれど、自分を俯瞰して見つめる時間をときどき設ける。自分自身との対話が、少しでも仕事のクオリティを高められればいい。

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ふと、窓の外を見る。

高いビルに、ビル20階分を超えるほど巨大なクレーン車が添えられている。いまは休憩中のようで稼働していないが、高所の作業を、彼は手際よく処理するのだろう。

かつて取引先が浅草だったこともあって、東京スカイツリーの建設過程を少し追うことができた。ひとことで言うならば、スケールがあまりに大きかった。何もかも巨大で、何もかも段違いで、何もかも個人という規格を超えていた。

それをオールジャパンなんて言葉で美化しても良いけれど、感覚だけは麻痺してはいけない。これは「ふつう」のことではないのだと。東京のいたるところが「工事中」で、際限なくスケールを拡張していっているように見えるけれど、土地は限られており、どこかで引き返すときが必ず来る。

工事か、と思う。

工事の「工」は、職人の仕事を象徴する漢字だ。

たて、よこで構成されたシンプルな「工」。語源も由来も分からないが、作り手の信念さえも滲んでいるように感じる。

「工」という感覚を、僕はかつて、仕事で持っていただろうか。

組み立てていくような実感はなく、仕事が流れてきて、それを少しだけこねて、また然るべきところに放っていく。その過程で果実を得られるからこそ、企業の利益になっていく。そこに組み立てた実感がないのは、組み立てなくても仕事は回っていたからだった。

物理的な「もの」だったとしたら、こんな仕事は手抜きにしかならない。建てられた後に欠陥が判明し、欠陥工事の責任を取らされるだろう。だけど目に見えない仕事の場合、それらが可視化されることはほとんどない。KPIみたいなインジケーターで仕事の良し悪しを語られることはあるけれど、それは根本的に、丁寧さのような数値変換できないものは扱えないという「欠陥」がある。

工事をたどる。

軒下でタバコを吸っているおじちゃんたちは、工事している実感があるのかな。いつも美味しそうにコンビニ弁当を頬張っている彼らの姿が、ちょっとだけかっこよく映るのは、僕にできない仕事をしているからだけでなく、概念としての工事をまっとうしているからなんだ。

誰にも気付かれないかもしれない。

だけど、その過程が大事だと言い切れるような仕事をしていこう。1週間のはじめに、こういう思いに至れて本当に良かった