分かりやすさの功罪(ふつうエッセイ #40)

何かを分かりやすく説明するときに、広く使われている物事を添えることがある。

例えば難関海外大学に合格した人を紹介するとき。

1. あまり英語力が高くなかった
2. 6年間で努力をした
3. 難関海外大学に合格した
4. 努力というのはとても大切なこと(誰でも努力をすれば結果に繋がる)

このようなストーリーラインを組み立てるときに、あなただったらどんなことを意識するだろうか。虚偽はもちろんNGだが、もし彼(彼女)の努力を強調するとしたら、

・出発時の英語力が低かったことを強調する
・6年間の努力が凄まじかったことを強調する

のいずれかだ。難関海外大学の合格はどんな人にとっても大変だが、よりドラマチックに描くのであれば「もともと彼は優秀じゃなかったんですよ」という方が「驚き」を演出できるのだ。

そこで添えられるものとして、例えば「英検5級」というものがある。「中学1年生のときに英検5級が不合格だった」というエピソードが挿入されれば、先天的に語学力のセンスがあったわけではないということが読み取れるだろう。(英検5級の合格率は8割を超える)

そして、その後の6年間で必死に努力したのでは?ということも推測できる。「もともと頭が良かったんじゃないの?」と疑う読者に、英検5級不合格という具体的なエピソードは非常に効果的なのだ。とても分かりやすい。

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しかし一方で再現性という観点からはどうだろう。

そのストーリーラインで語られなかったことが、もしかしたら結果に直接寄与していることは十分考えられる。

例えば幼少期に国語や算数などの基礎学力を高めていたかもしれない。それにより「学習机で勉強できる」という学習習慣を身につけていたかもしれない。そもそも両親が裕福で教育への投資を惜しまなかったかもしれない。偶然メンターとの出会いがあり「海外大学へ進学する」という選択肢を持つことで勉学に取り組めたのかもしれない。

英検5級に不合格だったのは、受検したときに気分が優れなかったということだって考えられる。(ただしその事実は、驚きの演出に不要なのでしっかりと伏せられてしまう)

色々な「かもしれない」の複合で、結果は成立するものだ。分かりやすさを恣意的に演出し過ぎることで本質から遠ざかってしまうこともある。注意が必要だ。

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時間に追われる現代において「分かりやすさ」の価値は高い。

しかしそれはあくまで参考程度に受け止めるべきだ。鵜呑みにしてはいけないと思う。

分かりやすくするプロセスで切り取られた枝葉を、拾い直してみる。実はその枝葉に本質が詰まっているかもしれない。

分かりにくさを歓迎する。ちょっと不思議な主張だが、それくらいの大らかなスタンスと余裕を持っておきたいと思うのだ。