戦争が始まった。
こんなときに、エッセイを更新しようとしている自分がいる。
その手を止めるべきだと、逡巡している。情勢を追い、ハッシュタグをつけて連帯を呼び掛ける。あるいは連帯に加わる。それが世界中の連帯に繋がらなかったとしても、何もしないよりはマシだろう。
SNSのタイムラインを眺める。
情勢をまったく鑑みないツイートが多すぎる。こんなときに宣伝なんてしている場合か、と思う。腹が立つ。怒りは視点を狭め、寛容であることを放棄してしまう。それはダメだ、ダメだけど、怒りが収まらない。
なぜ無益な戦争をしてしまうのか。
そこに無関心でいることは、どうしてもできない。
だけどエッセイを更新しようとしている。たとえ戦争のことに言及していたとしても、それは私的なメリットのためではないか。そう自問自答しながらも、でも、タイピングする手は止まらない。
残しておく。この感情を、残しておく。
あとで振り返ったときに、「戦争」という愚かなことをした人たちがいることを忘れないために。
その事象に対して、真剣に嘆いたり、怒ったり、商業的なツイートをしていたり、寝ていたり、どさくさに紛れて戦争容認の発言をしたり、そもそも無関心だったり……千差万別のリアクションをも忘れない。
書くこと、記録すること、表現すること。
タイピングする手は止まらない。それが、僕の意思の顕れなのだ。