書くこと、記録すること、表現すること(ふつうエッセイ #172)

戦争が始まった。

こんなときに、エッセイを更新しようとしている自分がいる。

その手を止めるべきだと、逡巡している。情勢を追い、ハッシュタグをつけて連帯を呼び掛ける。あるいは連帯に加わる。それが世界中の連帯に繋がらなかったとしても、何もしないよりはマシだろう。

SNSのタイムラインを眺める。

情勢をまったく鑑みないツイートが多すぎる。こんなときに宣伝なんてしている場合か、と思う。腹が立つ。怒りは視点を狭め、寛容であることを放棄してしまう。それはダメだ、ダメだけど、怒りが収まらない。

なぜ無益な戦争をしてしまうのか。

そこに無関心でいることは、どうしてもできない。

だけどエッセイを更新しようとしている。たとえ戦争のことに言及していたとしても、それは私的なメリットのためではないか。そう自問自答しながらも、でも、タイピングする手は止まらない。

残しておく。この感情を、残しておく。

あとで振り返ったときに、「戦争」という愚かなことをした人たちがいることを忘れないために。

その事象に対して、真剣に嘆いたり、怒ったり、商業的なツイートをしていたり、寝ていたり、どさくさに紛れて戦争容認の発言をしたり、そもそも無関心だったり……千差万別のリアクションをも忘れない。

書くこと、記録すること、表現すること。

タイピングする手は止まらない。それが、僕の意思の顕れなのだ。