フィクションと、ノンフィクションの間。(ふつうエッセイ #515)

事実を事実として、どれだけ担保したものとして見做すことができるだろうか。

歴史の教科書から「坂本龍馬」が消えようとしたとき、熾烈な反対運動が起こったのは有名な話だ。

だが、史実として、坂本龍馬がどのような貢献をしたかというのは、専門家によって評価は二分される。でも、物語として、幕末における坂本龍馬の八面六臂の活躍は周知の事実だから、「坂本龍馬は大したことをしていない」という結論を出したとき、受け入れ難い人がいるのは何となく想像できる。

ここに、フィクションとノンフィクションの間の揺らぎについて、ヒントを見出すことができる。

歴史は、勝者によって作られていく。もし幕末に、薩長をはじめとする各藩の動きが失敗したとしたら、幕末志士とよばれた偉人たちは「テロリスト」の汚名を着せられていたかもしれない。

目の前にある事実は、あくまで事実らしきものに過ぎない。

それくらいの疑心暗鬼こそ、社会を正しく見据えるための一歩なのだろうか。