〜〜節(ふつうエッセイ #149)

とりわけ問題発言を繰り返す政治家に、「〜〜節」と形容する風潮がある。

批判性が全く感じられず、全方位に良い顔を振りまくような甘ったれた表現だなと憤慨すらしたくなる。

鼻息荒く書き出したけれど、こういった言葉にますます不感症になっていく社会を、僕は懸念している。

「〜〜節」と表現することは、その言説を面白いと思う人たちがいるという証でもある。もちろん中には、倫理的に許容される範囲で常識を飛び越えた言説もあるだろう。差別とかヘイトスピーチとか、社会的に害をなさない言説であれば当然許容して良い。

だからこそ言いたいのだが、「〜〜節」は、良いも悪いも十把一絡げにする表現ではないか。

書き手が「あの人の発言は社会的に問題もあるけれど、表立って批判はできないから「〜〜節」と記そう」なんて考えているのであればた。もはや書くという行為を侮辱している。批判性をどこぞに打ち捨ててしまったのだ。

そんなことを気にせずに言語使用している人がほとんどであることは承知している。だから一概にそれらを真っ向否定するつもりはない。おそらく僕も、「〜〜節」という表現を使っていたことが過去あるだろう。本来、胸を張って「〜〜節」への批判ができる筋合いではない。

でも、そのカラクリに気付いてしまったからには、そのスタンスと一線を画す生き方をしなければならない。

うんざりするほどの「〜〜節」なる表現を散見しながらも、より良い表現を広く伝えたい。それがきっと、公共の精神に繋がるのだと僕は信じている。