カーブあり、事故多発(ふつうエッセイ #137)

少し前に、高速道路を運転した。

インターチェンジに入り、本線に合流する手前に、ぐるっと一周するかのようなカーブがある。ハンドルを切りすぎないよう、道路沿いを慎重に車を走らせる。

一般道を走っているときは、こんなカーブには遭遇しない。運転免許を取ったばかりのとき、ただでさえ高速道路を走るのは緊張したものだが、その一端を担うような存在だったように思う。

運転機会はそれほど多くないけれど、昔よりは、運転技術は向上したし、運転そのものにも慣れてきた。カーブも恐れることはなくなり、便利に自動車を利用できるようになってきた。

だからこそ気付くのだが、高速道路には、運転者を「怖がらせる」ような仕掛けが多すぎではないだろうか。

インターチェンジを入った直後に「カーブあり、事故多発」という文字が目に入った。カーナビでカーブがあることは分かっていたが、「事故多発」の文言に心臓がキュッとなる。

もちろん、これによって事故防止の効果はあるのかもしれない。だけどちょっと不安にさせすぎではないだろうか。事故多発って、今のことを言っているのだろうか。それとも昔のことだろうか。そんなに事故は起きていないのかもしれないな、なんて。

それは2年半前から続く、政府や地方自治体による、コロナ感染拡大防止のメッセージングにも散見される。「危険です」という強いメッセージ、子どもにも感染させるかもしれない危ないもの、という印象が早期に植え付けられている。それはある側面によっては正しいかもしれないし、恐怖によって最悪の事態(それはもちろん命を落とすことだ)は防げるのだろう。完全に否定はしない。

けれど、そのメッセージは麻薬のようなもので、恐怖が和らげば効能は発揮されなくなる。だから新しいウィルスが出回るたびに、もっと強力なメッセージを発信しなければならなくなる。コロナウィルスを指すわけではないけれど、事象自体が「それほど大したことない、けれど多少の注意はしてほしい」というレベルになったとき、それもまた恐怖を煽るようなコミュニケーションが必要になりはしないだろうか。

もっと理性的になれないものか。人間の限界なのだろうか。

そうは思わない。「ふつう」のコミュニケーションを模索していきたい。