ジャンプできるか、どうか。(ふつうエッセイ #468)

子どものとき、僕はジャンプするのが好きだった。

特に階段なんか、たまらない。近所の団地の階段は絶好の遊び場で、友達と「どれだけの段をジャンプできるか」を競い合ったものだった。

ジャンプ熱が冷めたのは、一度、ほんとうにスレスレの成功をしたときだった。あとちょっとでも何かがズレていたら、大怪我をしていたかもしれない。成功したのに、それにも増して恐怖が全身を包んだ。こういったときにアドレナリンが出て「もっと先へ」と進める人が、アスリートとして活躍できるのだろう。

幸か不幸か、僕はそういった恐怖心を、たぶん8歳か9歳くらいのときに覚えたのだ。

4歳の長男も、ジャンプが好きだ。

だけど、まだ自分がどれだけジャンプできるか分からないようで。周囲からみれば「それくらい余裕でジャンプできるよ」と思っていても、本人はそう思えないらしく。こういうのは性格かもしれないけれど、長男にとっては「ジャンプできるか、どうか」が非常に重要なターニングポイントになっているようだった。

彼は、ひとたびジャンプが成功すると、何度も何度も繰り返す。

「あ、できるじゃん!」という気持ちになるのだろう。親は半ば呆れるけれど、でも、恐怖心が解消されて良かったなあとも思う。彼にアドレナリンが出ているのかは分からないけれど、とても健全な方向に、ジャンプできていることを嬉しく思う。

勇気と無謀は違う。よく言われることだけど、どう違うのか、僕はイマイチ言語化できない。

でも彼ら(次男も含めて)には、無謀なことだって、どんどんやってほしいと思う。怪我することもあるだろう。怪我したら、思わず「何やってんの!」なんて言ってしまったりするけれど、でも、基本的には「よくチャレンジしたね」と認めてあげたい。

そんな大人でありたい。それが、大人になった僕にとってのジャンプなのかもしれない。