ものまねが公認されること(ふつうエッセイ #101)

ここ数年、ものまね芸人のスタンスが変わったように感じる。

元ネタの方との絡みが増えて、何なら一緒にデフォルメしたパフォーマンスをしている。そんなサービス精神は、観る者いとっても特別感があって楽しいものだろう。「○○さんに公認されて!」と嬉々として語るものまね芸人の気持ちも分からなくもない。

だけど、ちょっとだけモヤモヤは残る。

本来ものまねというのは、元ネタの方が「嫌がる」のが普通だ。かつて某俳優のものまねをした芸人が、あからさまに不快感を示されたことがあった。テレビ放送もされていたので、いち視聴者としてハラハラしたのだが、考えてみればそれは当たり前のことだ。友人同士という内輪でも、自分の真似をされると居心地が悪くなる。「笑われている」ことを黙認できる人は少数だろう。

だけど、ものまね芸人は彼らから嫌われても仕方がないと思っている。自らの芸が「商売になる」と確信しているのだ。自らの芸にお金を払ってくれる客がいる。相当の覚悟を持って、芸に徹しているというわけだ。

ある意味共犯関係となって、お客さんを楽しませる光景は微笑ましくもある。だけど「嫌われたくない」という思いが募れば、極端にデフォルメするような芸は控えなければならない。それは、芸を極める上での支障になりやしないだろうか。

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昨今はTwitterでもInstagramでも、公式マークをつけたいと望む人が増えている。

もともとは有名人が、乱立する偽アカウントと区別するために設けられたものだが、オフィシャルという「箔が付く」状態を欲している人も少なくない。

その気持ちは分からなくもないが、「本物と偽物」と「オフィシャルとアンオフィシャル」とを同列に語ってはいけないとも思う。

オフィシャルではできず、アンオフィシャルだからできることが山ほどある。その「面白さ」は、オフィシャルという箔が付かなくても、少しも減じることはない。公認なんてされなくても良いじゃないか。芸を磨こう。己にも言い聞かせたいアンオフィシャルな金言である。