さする、なでる、さわる(ふつうエッセイ #6)

日本の中学生であれば、さする、なでる、さわるは全て「touch」と英訳しそうなものだが、日本語では自他の身体に触れる行為に対して言葉を使い分ける。

0歳の息子が寝付けずに困っているとき、背中をゆっくりと、さする。泣き止むことはないが、そのトーンは目盛り1つ分は下がっているような気がするから、少しは効果があるのだろう。

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深夜1時過ぎ、すっかり寝息を立てている3歳の息子は、昔と違って「おっぱいが飲みたい!」と起きることはない。2年半くらい、ずっと真夜中に一度は号泣していたけれど、ちゃんと眠る体力ができたようだ。有難いことに、ちょっとの物音で起きることもない。

身内びいきで恐縮だが、息子の寝顔は美しい。穏やかで、何も心配事がないような顔をしている。この寝顔がずっと続いてくれたらと髪をなでる。手に伝わる体温はほんのり温かくて、僕も間もなく眠りに落ちるのだ。

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さわる、に関しては、こちらがうんざりするほど、息子たちは何でもさわろうとする。

目を離すと、ティッシュペーパーが無数の欠片となって散乱し、その傍らでケラケラ楽しそうにしている息子たち。義務的に物にふれる大人と違って、子どもは好奇心に忠実に、物にふれる。さわる。

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触覚という感覚を、僕は、なおざりにしているかもしれない。

自他問わず、何かにふれることは、物事と接点を持つことだ。接点が希薄になれば、おのずと行動や思考の範囲も限定される。

さわると、掴むは別の行為だ。ギュッと掴んで自分のものにしなくても構わない。

ふれたい、ふれていたい。それくらいの謙虚な気持ちで、社会の不寛容に対峙できたらと思う。