信号機のパターン(ふつうエッセイ #100)

小学生の頃、信号機のパターンに夢中になっていた。

自宅そばの信号機を渡って小学校に向かうのだが、信号がどのタイミングで青に変わるのか、予想するのが楽しかった。

信号機は、単独で機能しているわけではない。今でこそ交通量なども踏まえた自動制御がなされている場合があるが、僕の地元では、せいぜい隣接交差点との兼ね合いで青、黄、赤が切り替わっていたくらいのレベルだった。

高校生のとき、最寄駅まで通学するにあたり、信号機との付き合い方はとても重要だった。毎日余裕を持って家を出れるわけもなかったから、1分でもロスがあったら電車に乗り遅れてしまう。つまり信号機との相性が重要になるのだ。

僕の場合、家から一番近い信号機がキーとなった。

彼(信号機のことです)が、交差点に到着する直前に青に変わってくれると、それ以降の交差点でも青に変わっていた。到着する直前に、示し合わせたかのように青に切り替わるのはとても気分が良いものだ。(電車にも無事に乗れる)

真逆の場合もある。ギリギリのところで信号機が赤に変わり、渡れなかった場合。それ以降の信号機もだいたい渡れない。どれだけ全力でダッシュしても信号は赤に変わってしまう。無情なほどに。(電車にも乗り遅れる)

今は、それほど毎日時間に追われることはない。

それなりに余裕を持って時間管理できるようになったし、プライベートな予定だったら「まあ5分くらい遅れても構わないわな」なんて悠長に構えてしまうのが常だ。

それでもやっぱり、「このまま歩いてたら信号変わってしまう!」なんて察すると小走りになってしまう。子どものときの習慣や感覚って、あんまり変わらないものです。

それにしても、信号機のパターンを制御している人やシステム、一度で良いから見学してみたいなあ。子どもの頃は警察署に社会科見学したことがあったけれど、大人になったら、あまり警察署には足を運ばない。

長年刻み続ける信号機のパターン、何だか他人事には思えないのだ。

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本日で、ふつうエッセイが100本目の公開となりました。

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