Netflixのだだーん(ふつうエッセイ #85)

物事を象徴する何か──意図的にデザインされたものもあれば、後付けで象徴になってしまうものもある。

例えばNetflixの開いたときの起動音「だだーん」は、新しい物語が始まるような予兆を感じさせる。Macの「ジャーン」も同様で、これから面白い仕事をするぞ!というチャレンジを想起させる。

SoftBankが2000年代後半(iPhone発売以降だろうか)に、携帯電話で発信するときに「トゥトゥトゥ」という音を最初に発させたのは、間違いなく意図的だ。当時SoftBank同士の通話はほぼ無料でできたので「あなたもSoftBankなのね(じゃあ気軽に話しましょう)」という安心感をユーザー同士に与えていた。

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冒頭に、「後付けで」と書いた。多くの作為的な試みは失敗しているということも含意させたつもりだ。

例で挙げたNetflix、MacBook、SoftBankといずれも共通しているのは圧倒的な社会への流通量というか、露出の多さがあることだ。短期間で社会に定着したものの多くは、発信元がどれだけの資本を持っているかに比例している。

比例しているとは言え、何か象徴させようと思った試みのほとんどはワークしない。塩梅は難しいし、センスも必要なのだ。

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では資本のない人たちは、何か象徴となるものを生み出すことはできないのか。

いや、そんなことはない。と僕は主張したい。

多少の長い時間はかかるかもしれないが、じっくりと具材を温めるように、同じことを何度も繰り返していくことで、社会と対話するように少しずつ何かが生まれていく。色々な店で当たり前のように使われている「いらっしゃいませ」という言葉も、誰かが挨拶として「いらっしゃいませ」と言おうと決めたわけではないはずだ。何かしらの掛け声を続けていったことで、少しずつ「いらっしゃいませ」が定着していったのではないだろうか。

そんな美しい双方向を、いつも僕は、期待している。