3回目のスタート(ふつうエッセイ #695)

自分じゃなくても良いじゃないか。

今も昔も、そんな物差しを取り出しがちだ。学生時代、スポーツの才能がないことに気付き、そうすると途端にやる気を失ってしまう。本当は素振りをしたり、練習を重ねたりしなければならないのに、どうにも身体が動かない。何やったってダメだと感じてしまう。あのときは「なぜ、僕は動けないのか」の問いすら浮かばなかったけれど、結局自意識の高さゆえだったのだろう。自分じゃなくても良い、じゃあやらなくたって良いだろう。

夜風に吹かれながら散歩した。「自分じゃなくても良い」に溢れた仕事に囲まれつつ、思うのは、それはそれで保険のようなもので、僕が動けなくなったときに誰かが助けてくれる余地があるということなんじゃないかと、ふと思った。

大人の多くは働いている。

でも、色々な事情で働けない人もいる。

それは「だめ」なことではなく、保険のようなもので、誰かが動けないときに代わりに動くエコシステムで成立しているということではないか。

そもそも僕は動いている前提で話しているけれど、例えば地域奉仕の活動は何ら携わっていない。でも地域が、地域として成り立っているのは動いている人たちがいるからだ。地域奉仕だけでなく、政治や金融、文化、教育や保育の世界で僕は価値を提供していない。代わりに誰かが担ってくれているのだ。

そうなると「おたがいさま」という考えが、スッと腑に落ちてくる。

僕の祖母は齢90を超え、少しずつ身体の自由がきかなくなってきた。彼女のそばに、僕はいない。叔父や、叔父の家族、親族や、デイサービスの方々に祖母は支えられている。

僕の仕事は、祖母を支えてくれる人にそこまで届いてはいないだろう。でも何か届いているかもしれないし、これから届けられるようになるかもしれない。巡り巡る。その日を楽しみに、気持ち新たに前を向こう。

TOITOITO、今日が3期目のスタートだ。