VS構造(ふつうエッセイ #547)

世の中にはあらゆる構造があるけれど、対立構造ほど分かりやすいものはない。

過去における強者と弱者がいる。今年の大河ドラマでも、今川家に仕えていた松平元康(のちの徳川家康)は圧倒的な弱者である。もともと織田家に人質として預けられ、政略の中で今川家に飛ばされる。自分の主領である岡崎に戻ることもままならない。

織田信長には白兎として侮られ、今川氏真には裏切り者と嘲られ、そして武田信玄には世間知らずだと一蹴される。

圧倒的な弱者で、身動きがとれない。まさに「どうする家康」である。

だが、そんな状態こそ、人は「頑張れ」と応援するのだ。不条理や不合理で苦難を味わっている弱者が、強者に対峙するとき、声を枯らして応援する。WBCやワールドカップが盛り上がるのも、日本は弱者であるということが前提にある。ヨーロッパの強豪国に打ち勝てば歓喜するし、アメリカに勝利すれば「メジャーリーグどんなもんじゃい」という気分になる。逆は、そうはいかない。もちろんある程度盛り上がるだろうけれど、「日本に勝った?まあ、そりゃ、そうでしょ」となる。

器用な人は、自らを弱者としてアピールする。「弱い自分が、強い者と戦うのだ」という構図で、味方を増やしていく。本当に弱い立場の人もいるけれど、そもそも強者と弱者に二分する必要があるのか、傍観者ならば一考した方が良いように思う。

対立構造は分かりやすい。ゆえに、危うさも孕んでいる。

騙されないように気をつけたい。どんなときも、どんな対象であったとしても。