悔しさの吐露(ふつうエッセイ #499)

「悔しい」とか、「つらい」とか、そんな感情を最後に吐露したのはいつのことだろうか。

たぶん、昨年秋かなと思う。

たしか、妻に弱音を言ったのだ。ぼんやりと記憶はあるけれど、詳細は憶えていない。どちらかというと僕は、あまりネガティブな感情を外に出さない。悪く言えば、抱えて込んでしまう性格なのだ。

だから、いざ吐露しようとすると、頭を抱えてしまう。

吐露する内容もヘビーなのに、「吐いて、露わにする」という行為が、結構しんどいものだからだ。

他人の吐露は「言ってくれて、ありがとう」という感覚なのに、僕に置き換えると、悔しさを言い出すのはなかなか難しくて。できることなら誰にも見られたくないし、誰にも晒したくない。それって吐露じゃないよねって話だけど。

歳を重ねるにつれ、直情的に「悔しい!」と思うことが少なくなった。かけっこで負けるとか、テストで100点取れないとか、野球部でレギュラーになれなかったとか。その都度悔しさを感じてきたけれど、だんだんと折り合いをつけられるようになってきた。

ワンクッション、置くのだ。「売上は未達だけど、外部環境があまり良くなかった。悔しいけれど仕方ないよね」というような感じで。

だから、ときどき訪れるワンクッションを置かずに襲ってくる「悔しい!」という感覚が、悲しいかな、慣れずに身体を蝕んでいくのだ。蝕まれた状態で発する吐露は、そりゃあ、じめじめしたものだろう。涙だって枯れている。

だから、ときどき、クッションを挟まない方が良いのだ。あるいは、定期的にクッションも洗わないといけないのだ。

然るべきときに、ちゃんと「悔しい!」って言えるように。そんな機会をちゃんと大切にしたいし、すべきだと思うから。