つまづかなくたって(ふつうエッセイ #159)

同郷の有名人に、詩人・相田みつをさんがいる。

「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」を知らない人はいない。「躓くは、つまずくではないか?」と思わなくもないけれど、挫折で苦しんでいる状態さえも肯定してくれる彼の言葉に、救われている人は多いはずだ。

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ふと思ったのだが、もしかして日本人は躓いたり、転んだりするのが好きなのではないだろうか。

七転八倒、七転び八起きなどの言葉に象徴されるように、やたらと僕らは転ばされる。

成功するために挫折は絶対に必要だ。と言わんばかりに、特定の人物を取り上げたドキュメンタリー番組で、挫折したエピソードは必出する。

その経験をバネに頑張れた、というストーリーはきっと真実でもあろう。

躓きが語られ、直後には、起き上がったこともセットで語られる。躓いたままで人生を終えてしまったら、それは万人にウケる物語にはならない。

まずは転んでくれ、でもその後は必ず起きなさい。

そんな無言の圧力を感じるのは僕だけだろうか。

でも、そんなに都合良く、物語は進行しない。

挫折したままで悩み苦しむ人もいる。相田さんが救ったのは、そういった市井の人たちだった。「つまづく」そのものを肯定し、物語としてウケなかったとしても人々をしっかり励ました。

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ただもうちょっと肯定の範囲を広げるのであれば、「つまづかないように頑張っている」人だって称えられるべきではないだろうか。

多くの人が経験している挫折は、振り返ってみれば「大したことがない」もののように感じるけれど、当事者の当時は異常に心を痛めるものだ。その痛みが分かるからこそ、致命的に苦しむ以前に感情をコントロールする。

フルマラソンで、20km地点の息切れは取り返しがつかない。42.195kmを走り切るためには、自分の心身と向き合って、良いペースを保つことが重要だ。

「つまづかなくたっていいじゃないか にんげんだもの」

そう、僕は思うのだ。

躓かないように細心の注意を払いながら、自分の持ち場でせっせと仕事をする。仕事でなくても構わない。与えられた役割をコツコツとまっとうする。躓いた経験はマストではない。

こんな不確定で、不確実な世の中だからこそ、躓かずに生きようとしている人たちこそ、本来は物語になるはずだ。