たびたび思うんだけど、糸井重里さん(ふつうエッセイ #498)

Webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で、日替わりで更新されている「今日のダーリン」。1998年から毎日書かれているエッセイだ。

何といっても、書き手は糸井重里さんということで、多くの読者に愛されている。僕も時折ほぼ日を覗くけれど、何だかんだ糸井さんのエッセイを読むことが多い。

それもあって、「ふつうエッセイ」の中でも、たびたび糸井さんに触れているが、何らかの道標というか、レファレンスとして意識しているのは間違いのだろう。

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話は変わるけど、僕がこのエッセイを気軽に書けるのは、ほとんど誰も読んでいないだろうという確信があるからだ。(えっへん)

僕だって、いっぱしのサイトディレクターとして、「ふつうごと」がGoogleやYahoo!などの検索エンジンにいかに引っ掛かるかは意識している。でも、何というか「ふつうエッセイ」は無関心というか、読まれようが読まれまいが構わないというのが正直なところで。

例えば「愛を語ってくれませんか」のエッセイ。「ふつうエッセイ」と違って、1億人くらいに読んでほしいという気持ちがある。毎月素晴らしい書き手の皆さんに寄稿してもらっているけれど、中には、初稿にけっこうな赤入れをした方もいる。「どうすれば、この素晴らしい文章がより伝わるようになるか」を考え抜き、校正に時間をかけているのだ。

それに比べたら、僕のエッセイは一筆書きに近い。どうでも良いわけじゃないけれど、自分のトレーニングのつもりもあって続けている節もある。

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さて、糸井さんのこと。

これだけ毎日、何万人(くらいだろう)の読み手がいるエッセイを書く心境はいかがなものか。四半世紀続けていると、もしかしたら良い意味で開き直れることもあるのかもしれない。でもなあ、やっぱり、迂闊なことは書けないわけで。

実際、コロナ禍に入って、糸井さんのエッセイが何度か賛否両論を招いているのを目にしたことがある。僕だって糸井さんのファンではないから、首を傾げることだってあるわけだけど、そういった良くも悪くも耳目を集める状況の中で、日々「書く」というのは、並大抵の胆力では済まない話のように思う。「いやあ、もうしんどいわ」って、糸井さんだって思うこと、あるんじゃないだろうか。

僕もいつか糸井さんのように……

と思うほど野心はないけれど、多少は「読んでもらえる」ようになる日が来たら、そりゃ嬉しいです。

でも、中傷や人格否定に近いようなコメントが飛んできたときは、「糸井さんもホラ、書いているでしょう?」なんて言ってしまいそうだ。全然違う話だけど、糸井さんの名前を出しちゃうような感覚。

それは良い意味で、糸井さんが進んでいる場所ははてしなく遠く、そして「後輩」である僕の前には良い感じの道が仕上がっている証拠でもあるのだ。

また折に触れて、糸井重里考を書くだろう。

そのときまで、もうちょっとマシなエッセイが書けていますように。