希望と絶望(ふつうエッセイ #500)

希望の対極は、絶望だろうか。

よく、「絶望よりも、希望を見出したい」なんて言葉を聞く。もっともらしく聞こえるけれど、もうちょっと深く考えてみたい。(予めおことわりしますが、今日のエッセイは「〜だろうか」「〜ではないか」が多いです)

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そもそも、希望と絶望とは、正反対の概念なのだろうか。「安全と危険」や「拡大と縮小」のように、完全に対義語として認めても良いのだろうか。

工事現場では、危険因子をなるべく排除して、安全に工事ができる空間を作る必要がある。同じように、生活や思考の上で「絶望」とは排除すべき存在であり、絶望を排除することによって希望を見出すという状態を作れるものと考えても良いのだろうか。

僕は、あまりそうは思わない。

でも、決してネガティブ志向を説きたいわけではない。

僕は、希望と絶望は、常に隣り合わせの概念だと思っている。容易に排除することはできないし、排除すべきものでもない。仮に絶望を排除できたとして、一緒に希望まで洗い流してしまうことになるのではないか。人生山あり谷ありという言葉があるが、山なくして谷がないように、絶望なくして希望もないのではないか。

仮に、希望と絶望が隣り合わせであったとして。必要なことは、絶望を受け入れるスペースを設けておくことではないか。

僕は思うのだけど、人間は誰しも、ちょっとくらい絶望した方が良い。死の淵まで行くほど思い悩む必要はないけれど、「納期が間近に迫っているのに、1行の文字も書けていない」というような、軽い絶望(を生む状況)は、少しくらい経験していた方が耐性がつくのではないか。

息子がまだ0歳だったとき、電車の中で息子がうんちをした。まだ目的地まで遠かったこともあり、電車内の個室トイレでオムツを交換していたら、なんと大量のおしっこをしてしまい、床がおしっこ浸しになってしまった。あのときも、軽い絶望を覚えたけれど、この程度のことであればどんどん経験した方が良い。

できれば、もうちょっとハードなやつ。「あっちにもいけないし、こっちにもいけない」。そんな袋小路に追いやられたような絶望は、少し先に待ち受ける(はずの)、希望を見出す準備期間のようなものではないだろうか。

もちろん、希望と絶望が交互にくるほど、人生は単純ではない。

待って、待って、待ちくたびれて、ようやく希望は訪ねてくる。考えてみれば、どんな生物だって絶望(「死」というべきか)と隣り合わせだ。

生きるのは大変だ。だけど、いや、だから楽しい。

そんな心持ちで生きている38歳男性の拙いエッセイ、これからも読んでいただけると嬉しいです。