飛ばしてみやがれ(ふつうエッセイ #377)

2022年9月13日、「星野源のオールナイトニッポン」で「飛ばしてみやがれ」というコーナー(曲紹介)があった。

前提として「最近の若者はイントロを飛ばすといわれているが、本当なのか?」という星野さんの疑問がある。だがとりあえず世間の「通説」に従ってみよう、その上で「この曲のイントロも飛ばせるのか?」という問いをリスナーに投げ掛けてみようという企画だ。

紹介されたのは、Jamiroquai「Virtual Insanity」。確かに、この曲のイントロを飛ばすのは、あまりにもったいない。イントロにて曲のワクワク感やテンションを定め、そして歌唱が始まる。もちろん歌唱も素晴らしいのだけど、イントロがあることで曲が特別なものになっていくのだ。

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「飛ばしてみやがれ」というネーミングも良い。

「勝手にしやがれ」を連想させる響きだが、やれるもんならやってみなという現代の空気感とアンマッチなところが絶妙にハマっている。

僕はイントロとそれ以外を分けて考えたことがないので、「飛ばせる」「飛ばせない」の曲をすぐには挙げられない。イントロの曲があるからこそ、歌い出しスタートの曲が目立つともいえるし。

「サビが結論」というのは、やや大袈裟だけど。結論を先に言わなくたって良いのだ。飛ばす、飛ばさないは当人の自由だ。「飛ばせない」のが不自由だとしたら、不自由という縛りがあるからこそ得られる体験もあることは強調したい。

繰り返すけれど、飛ばしたって構わない。でも、飛ばしてみやがれ!そんな気概でアーティストには楽曲づくりに挑んでもらいたい。