手書きの効用(ふつうエッセイ #329)

10日ほど前に、「手書きの履歴書」に関するエッセイを記した。

手書きの履歴書に関する批判にありがちなのは、「令和に入ったのに、まだ手書きなのか」というもの。複数社に応募する就職活動において、手書きの履歴書を用意するのは確かに大変だ。だいたいの採用担当者は「気にしない」はずなので、ぜひデータで履歴書を作成してもらいたいものだ。(大事なのは、中身です!)

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しかしながら、手書きが時代遅れか、といえば、そんなことはない。手書きの効用は間違いなくあると確信している。

実利的な効用はきっとあるけれど、僕は「自由を体験できる」というところに効用を感じている。

言い換えると、手書きとは、自由をとてもカジュアルに体現している行為だといえるだろう。

手書きは自由だ。文字を書くことも、絵を描くこともできる。文字の大きさや色を変えたり、下線を引いたり。勢いよく書いた文章が気に入らなければ、ぐちゃぐちゃに取り消し線を引くこともできるし、いちおう残しておきたければ「?」を添えれば良い。

パソコンでも似たようなことはできるけれど、パソコンやソフトのスペックに依存する。コンピュータに規定された上で、クリエイティビティを発揮しなければならない。

コンピュータに規定されている、と書いた。だけどそれは悪いことではない。ある程度制限された方が創作性が高まることはある。それに1万字の文章を書くならば、手書きよりもキーボード入力の方が圧倒的に楽だ。コンピュータの方がはるかに利便性は高い。

だから僕が手書きの効用で示した自由とは、利便性と一線を画したところに存在する。

というか「自由を体験できる」というのは、分かりやすいメリットは皆無だ。「自由だ〜!」と叫んでも、1円にもならない。

自由とはかくも脆い価値観の上にあるわけだけど、それでも自由を享受することの意味は、確実に存在する。それがたとえ共感されなくても、ずっと発信し続けていきたい。なによりも、自由を感じられる人生が素晴らしいものだよと。