ちゃん付け(ふつうエッセイ #153)

どんな理由があれど、

・乳幼児
・自分の関係者(親族や、親しい友人の子どもなど)

以外の状況で、「ちゃん付け」で呼ぶ人が苦手だ。

職場での「ちゃん付け」はハラスメントの認定がなされているものの、未だに著名なタレントやアスリートに対して「ちゃん付け」が横行しているのは、どういう了見なのだろうか。

良い悪いでなく、ふつうに「さん付け」で呼べば良い。

こんなことを言うと不思議な顔をされてしまうのだけど、こちらの方が不思議な顔をしたいくらいだ。

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こういうことは、たびたび起こる。

もちろん何が常識なのか、というのは人によって異なる。

だから前述した「どういう了見なのだろうか」というのは、一概に、相手を否定する文脈ではない。

人前でおならをすることが信じられないと思う人もいれば、人前でおならをするのは生理的に自然なことだと思う人もいる。(まあ、おならはなるべく人のいないところでする方が良いかなとは思うけれど)

この「どういう了見なのだろうか」のぶつかり合いは、ともすれば正義を主張し合っている者同士の不毛な争いに展開してしまうのだけれど、だからといって妙なところで折り合いをつけるわけにはいかないことも。特に「ちゃん付け」に関しては、対象を飼い慣らそうとするような従属性も見え隠れするので、「どういう了見なのだろうか」は言い続けていきたいなと思っている。

折れても良いところと、ここだけは折れないところ。

この分岐点は正確に見定めていたい。

ただ見定めた結果、自分が誤っているのであれば、非を認め、素直に修正する姿勢は持ち合わせていたい。