想定と期待(ふつうエッセイ #117)

僕は三十七歳で、ドリンクバーから出てきたぬるいコーヒーに眉を顰めていた。

二日前のエッセイで、村上春樹さんの『ノルウェイの森』の書き出しを引用した。

似たような文章で書き出したのには理由がある。

年の瀬、ふらりと入ったファミリーレストラン。

Macを取り出して、ドリンクバーを注文。いつも通りコーヒーを注ぎ自席に戻る。すすった瞬間、前述の通り、眉を顰めたのだ。

ぬるい!

え?どうして?ドリンクバーだから?

いやいや、それはドリンクバーに失礼だろう。世の中のドリンクバーは、いささか炭酸は抜けつつも、いつだってお客さんの喉を潤してくれる。何杯おかわりしたって、ホットコーヒーはいつだって温かい。おそらくは機器が不調だったか、温度が十分でないままコーヒーがセットされたかのどちらかだろう。

想定していた温度と違うことで面食らったが、僕はドリンクバーに過度な期待を寄せていたのだろうか。

*

想定と期待と書いた。

おそらく期待というのは、それなりのクオリティを見越しての表現だと思う。ドリンクバーのコーヒーが温かいというのは期待ではなく、想定というか、「そりゃ温かいでしょう」という感覚だ。期待とは違う。

やや申し訳ないけれど、僕はドリンクバーの味には期待していない。ファミリーレストランで落ち着いて作業ができることが、僕にとっての期待だ。

必要最低限の機能を満たすことが想定。相手の「これぐらいはやってくれるだろう」という成果を果たすことが期待。

そう捉えると、あらゆることに合点がいく。

例えば、今年購入した洗濯乾燥機について。

「ちゃんと汚れを落としてね」という想定はきちんと達成し、「洗濯にかかる僕ら夫婦の時間が短縮できると嬉しいな」という期待を上回ってくれた。

僕の仕事はどうだろうか。

会社を創業して以来、ありがたいことに何社かが声を掛けてくれた。「堀ならこれぐらいはやってくれるだろう」という成果をはるかに超えられるよう動いたつもりだ。求められていることはもちろん、直接は求められていないことにもタッチしながら、相手の期待を上回るように常い心掛けている……。

だが、もしかしたらこれは、いささか甘めの自己評価に過ぎないのかもしれない。想定という概念を持ち込むと、自分の仕事を冷静に客観視できる。

うーん、期待を超えられる働きができただろうか。

僕に仕事を任せてくれたことで、相手の会社の売上が伸びたり、費用が削減できたりしただろうか。うーん、ちょっと心許ない気がする。あくまで期待とは、具体的な成果に紐づくものだからだ。

甘めの自己評価を続けていくと、自分の目を曇らせてしまう。

そんな状況に陥らぬよう常に自戒しながら、相手の期待を上回っていくことを念頭に置きたい。

* * *

2021年、ありがとうございました。

生まれたばかりのWebサイト「ふつうごと」に協力いただいた書き手の皆さん、取材に応じてくださった皆さん、陰ながら支えてくださった読み手の皆さん、心から感謝しています。

来年も、たくさんの「ふつう」をお届けできたらと思います。年末年始、寒い日が続きますがどうぞご自愛ください。

また来年、お会いしましょう!