フロムは人の本質というのは基本的に「同一」であり、誰を愛するかが問題ではなく、愛し続けようとする意志が大事なのだと説く。
そう考えると、では恋愛対象は誰でも良いのか?という疑問が湧く。本書でもその疑問には触れられており、この疑問ゆえに恋愛は非常にパラドックスに満ちたものだという。
人は本質においては同質だが、一方で全員がかけがえのない唯一無二の存在であり、一人ひとりが持つ個人的な要素に強く惹かれる。だから、誰とでも愛し合える一方で、特定の誰かを運命の人だと位置付ける。
そう考えると、恋愛というのは偶然の出会いを必然の出会いに変えていくことなのではないだろうか。
僕らが人生の中で出会える人は限られており、結婚するということは、特定の誰かに決める、ということである。こう書くとあまりにも普通に思えるが、多くの人が愛する訓練を積んでいないから、結婚という契約関係によって自分たちを支えているのではないか、と感じられる。だが、そうした契約があるゆえに、どうしたら相手を愛し続けられるかを模索するのだともいえる。(こう考える自分は、あまりにもドライかもしれない、、)
恋愛しかり、友人への愛しかり、どれだけ愛する技術を身につけたとしても、それを実行しなければ、意味がない。逆に訓練を積まなくとも、自分を信じ、相手も信じて接せられる人は、すでに愛する技術が身についている。そういう人はきっとこの本を手に取らないだろう。
では、この本を手に取るとは、自分が人を愛せていないことの証明なのか。
僕は、そうではないと思う。
愛が技術である限り、全ての人が愛することを身につけられるはず。それはすなわち、誰もが自分の幸せを手に入れられることの証明なのだ。