人生をBetすべきもの(ふつうエッセイ #674)

改めて自分の38年間を振り返ってみると、実に、戦略のない人生だったなと思ってしまう。

それは悲しみを通り越して、呆れさえしている。だけど、それでも何とか生き抜いてこれたことに満足しても良いんじゃないかと思っている。丸くなったなあ。

昔は、いわゆる「生きてるだけで丸儲け」という考えには同調できなかった。江戸時代末期(幕末)が好きで、長州藩や薩摩藩、土佐藩などが企てた大政奉還には血が騒いだものだ。坂本龍馬も高杉晋作も短命だったけれども、命を燃やすような生き方が格好良いと思ったし、僕自身も彼らのように「太く短く」生きて、何かを成し遂げたいと強く願ったのはそれほど昔の話ではない。

その考えが変わったのには、いくつかの理由がある。

そのうちのひとつが、間近な人たちの死だ。比較的年齢の近い友人や知人も、既に何人か亡くなっている。自ら命を絶った方もいれば、病気で亡くなった方も。

僕はこれまで大きな病気や事故に遭ったことはない。だからこそ無自覚だった「死」というものが、輪郭を帯びて実感できるようになったとき、「生きる」ことへの執着が湧き上がってきた。

77歳で死ぬよりも、78歳まで生きていたい。
思考力が弱まったとしても、できるだけ長く命を留めていたい。

もっとできたと、きっと死ぬときに後悔するだろう。もっとできたはずと臍を噬むような思いも抱くはずだけど、「ああ、けっこう生きたよな」とさえ思えれば、良い。それだけで価値がある。

人生をBetすべきもの。何に賭けて生活していくべきかはまだ見つかっていない。40歳手前で「自分探し」しているなんて思ってもいなかったけれど、焦ったって何にもならない。ちょっとした青写真は、もうちょっとで見つかる気もする。その「気もする」ような感覚があるだけで、何とか「今日」を持ち堪えることができる。

何年後かの未来を思い描き、設計図をつくる。

そういう段階に、ようやく入ってきたような。いや、まだまだこれから「みつける」「みつくろう」「つくる」ような段階だろうか。どっちだって良い、生きてさえいれば。