検収(ふつうエッセイ #649)

「もの」をつくる仕事には、「検収」というプロセスがある。

間違いが命取りになったり、高い安全性が求められたりする仕事において、検収は重要な位置づけだ。ここに予算や時間をかけないことで、高い代償を払っているケースを山ほど見てきた。代償というのはお金だけでなく、個人や企業の信頼も含まれる。失った信頼はなかなか取り戻せない。杜撰なものづくりの過程でエンドユーザーが命を失ってしまっていたら、それこそ絶対に取り返すことはできないのだ。

僕が長らく籍を置いてきたいくつかの業界でも、検収に時間を割かない(割けない、のではない)ケースをたびたび見てきた。検収への意識が低く、「スピード優先でお願いします」と、明らかに無理を強いたスケジュールが組まれることが多かったように思う。例えばIT業界では「拙速は巧遅に勝る」という言葉があるが、本来言われていた拙速の意味を履き違えている人もいるのではないだろうか。

もちろん、これは過去の自分への戒めでもある。

そもそも社会人の頃は、検収という言葉の意味がよく分からなかった。検収書を求められたら「ああ、面倒くせえなあ」と嘆息していたくらいだ。当時を振り返ると、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。

僕が検収の大切さを学んだのは、プロフェッショナルのデバッガーの方々と一緒に仕事をしたときだ。

「バグ」を見つけるデバッガー、彼らはとにかく凄かった。

開発会社がしれっと提出してきたありとあらゆるエラーを発見し、「バグではないか?」と報告してくれる。目のつけどころはシャープ、と言いたいところだが、あまりの切れ味(と、この報告をどうやって改善に活かすのか途方に暮れちゃったりして)に、自分をもダメージを受けるような思いがあった。おれは、こんなクオリティのものを「良し」としていたのかと。

また自分に未熟さを痛感したのは、「何がバグで、何がバグでないか」を示す指示書が、非常に甘かったときだ。指示書(といえるレベルなのか定かではないが)をデバッガーチームに渡したとき、あまりにも拙くて、デバッガーチームが頭を抱えていた。まだ経験が浅かったから、適当に、自分の感覚を並べていたのだろう。「こういうときは、どんな挙動をするのですか?」という質問にひとつも答えられなかったのだ。

手を動かす人、フロントに立つ人が賞賛される世の中だけど、商品やサービスが安心して利用できる背景には、縁の下の力持ちで頑張っていただいている方がいる。彼らは自分たちの価値を謙遜しがちだけど、そこに、どちらが偉いかなどといった上下の差なんて存在しない。僕は彼らがいたからこそ、「自分でもしっかりとサービスに向き合わないと」という気概を得ることができた。

彼らに出会ったのは、15年ほど前だっただろうか。皆さん、今も元気にしているのかなあ。