装いがあるからこそ。(ふつうエッセイ #579)

糸井重里さんみたいな文章を、ChatGPTは書けるんだと思う。

村上春樹さんみたいな文章も、ChatGPTは書けるだろう。

だけど、そのどちらの文章も、おそらく心の底からワクワクすることはないだろう。「これは村上さんの文章です」と嘘を言われて読んだとしても、どことなく嘘っぽい。

糸井さんの文章は、彼が運営する「ほぼ日」や、彼が手掛けるクリエイティブの中に宿るからこそ輝きを放つ。村上さんの文章も、「本」というフォーマットの中にあるからこそ、そこに魂のようなものを見出すことができるのだ。

「レジ袋は要りません」なんて、過剰な包装は避けるべき時代だけど、その人にしか書けない文章は、それなりのパッケージで包むべきだろうと思うのだ。

願わくば、僕の会社で運営している「ふつうごと」や「osanai」も、「いいじゃん、それ!」って言われるような装いになれたら嬉しい。馬子にも衣装って、普遍的な言葉なんだなあと改めて気付いた。