嘘つきは泥棒のはじまり(ふつうエッセイ #565)

「嘘つきは泥棒のはじまり」と言われるけれど、嘘つきは何を奪うのだろうか。

ひとつめは「物」だ。嘘が常態化すると、盗みさえも平気になるというのが本来の意味だが、字面通り受け取ると「物」を奪うのだろう。スーパーで万引きしたり、宝石店を急襲したり。丹念こめて作られたものが、何の対価も払わずに奪われてしまう。盗みとは、作り手に対するリスペクトを欠いた行為であり、嘘つきもまた相手に対する敬意がないということだろう。

ふたつめは「時間」だ。とある嘘をついたとき、それを信じてしまった人は、嘘に振り回されて奔走することになる。「あいつ、XXって言ってたよ」という嘘に騙されて、他者に対して無用な疑念を抱いてしまったとする。特に日本においては「空気を読む」というコミュニケーションも大きな割合を占める。嘘は空気を乱し、他者理解に大きく時間を要することになる。また政治家の嘘は、嘘を追求する人を増やし、結果的に余計な労力を奪ってしまう。有権者への裏切りだろう。

みっつめは「尊厳」だ。ふたつめと重複する点もあるが、嘘をつくというのは、相手の信頼を裏切るということだ。それによって色々なことが損失として浮上するが、信頼を抱いた相手自身も傷つけることになる。「なんで自分は、相手を信頼してしまったのだろう」という自己嫌悪も招いてしまう。しかし言うまでもなく、原則として、嘘をつかれるよりも、嘘をついた人間が悪いはずだ。無用な傷や落胆を生む、「尊厳を奪う」という行為。これもまた嘘つきの大いなる罪のひとつである。

もちろん、嘘には色々な種類がある。ブラフとは「ハッタリ」という意味もある。実績がない人間が、ハッタリとしてのブラフをかまし、後から実績に足るような成果を示そうとする。それはそれで若気の至りとして認められるケースもあるけれど、ブラフも嘘の一種であることは念頭に置いた上で、ブラフをかますべきだろうとは思う。つまり、ブラフをかます時点で、泥棒への一歩を踏み出しているということだ。

だからやっぱり、嘘はつくべきではないのだ。

他者から何かを奪う人間にはなりたくない。たとえそれが、生きるためだったとしても。