狂騒には乗れないし、乗らない。(ふつうエッセイ #564)

WBC決勝の翌日、朝刊を目にする。

そこには試合結果だけでなく、野球に対する選手や監督の思い、印象に残った言葉、野球人口の減少、サッカーとの比較の考察など、さまざまな記事が掲載されている。

朝から昼にかけて試合が行なわれたから、新聞が届く頃には丸一日が経っている。狂騒に乗るには、僕の頭はクールダウンし切っていたようだ。

時間だけが要因だろうか。

そうではないと、僕は思う。

たぶんそれは、「野球は素晴らしいもの」「スポーツは意義があるもの」という前提で、記事が組まれていたからだろう。

その前提を否定するわけではないけれど、僕は、その前提を前提として書き続けるメディアのスタンスには懐疑的である。メディアが批評をしなくてどうする。日本の祝勝モードに水を差したくない気持ちは分からないでもないが、それならメディアを名乗らないでほしい。

勝てば、全部オッケーなのだろうか。

狂騒は、あくまで一時的なブームであり、魔法のようなものに過ぎない。それは実行も、実効も伴わない。

いつまでも、「大谷選手、すごい」「漫画みたい」で済ませてはダメなんじゃないか。と、そろそろ思ってきている。