誕生日のメッセージ(ふつうエッセイ #390)

Facebookには、つながりのある人へ誕生日のメッセージを送るという「ならわし」がある。

ならわしといっても、今も頻繁に利用している人は限られている。それでも毎日タイムラインには、誰かしらの誕生日が祝われている。旧交を温める効果もあり、とても微笑ましい光景に映る。

それでも僕は、あるときから、Facebookにおいて誕生日のメッセージを一切送らないことに決めている。やりとりがオープンに見えるFacebookで、「送る」「送らない」の判断が漏れてしまうからだ。

定型文として「おめでとうございます!」と送るだけであれば、それほど苦労はしない。でもできれば心を込めたメッセージを届けたい。そんなとき、例えば四半世紀近く会っていない人に対して、何か言葉を寄せるのは非常に難しい。そんな感じで、結果的に已むなく、「送らない」という判断に至ってしまうのだ。

そこに差別や区別の意図はない。

けれど、どうしてもメッセージを送りづらい人がいるのは事実だ。多くの人が気にしないかもしれないけれど、暗に示唆するような行為にもなってしまうわけで。だから、僕はメッセージを送らない。(メッセージを送られると、返報しないといけない気もして、Facebookでは僕の誕生日は非公開にしている)

祝い、祝われ。

メッセージとは一方向であるべきではないというか、一方向で終わる性質のものではないように僕は思う。言葉を投げたら、言葉が返される。そういった関係で、コミュニケーションは形成されていく。

大好きだよ、と言えば、大好きだよと返してほしい。もちろんそれは片想いであるという可能性も孕むのだけど、それでも返してもらえる可能性を信じて発信し続けるのだ。だからこそ、その関係は常にフェアでありたい。フェアにつながらない可能性があれば(それが自分の力でコントロールできないのであれば)、僕は進んでその場から「逃げる」ことを選ぶのだ。