ネタ(ふつうエッセイ #106)

お笑い賞レースの翌日、テレビが華やかになる。

新星スターの誕生にざわめき、彼らの新鮮なキャラクターが微笑ましく映る。知名度の高い芸人もいれば、昨日まで無名だった芸人もいる。

こういった現象が毎回起こるのは、スターの誕生が「求められて」いるからだ。

お笑い芸人であれば、既存のパワーバランスのもと、だいたいのローテーションでキャスティングされていく。それはテレビであれ、ラジオであれ、劇場や営業の場であれ変わらない。メディアの特性に合わせて、受け手の最大公約数に最適化されるように組まれる。

こういった編集を、僕は否定しない。編集が行なわれない場は、僕らが思っている以上につまらないものだ。今はちょっとした「素人っぽさ」が求められることもあるけれど、プロの編集者は、そういった空気感もちゃんと押さえて編集を行なう。

どうすれば一番笑ってもらえるか。華やかなテレビの裏では、大勢のスタッフが心を砕いて編集を行なっている。そしてそれらは、だいたいのところ面白く仕上がっている。

だが、心のどこかで、そうした人工的な仕上がりに物足りなさを感じるようになってくる。わちゃわちゃと装飾された笑いを突破してくれるもの。予定調和をぶち壊すエネルギーが、ときどき必要なのだ。

まさに、それが、賞レースで期待されていることだ。

「こんなやつがいたのか!」とお茶の間は驚く。「彼らのネタがこんなにウケるのか!」とテレビスタッフも遅まきながら気付く。

そして多少のパワーバランスが組み直され、次のローテーションへと向かっていく。その繰り返しが、ある程度健全な新陳代謝になっていくのだろう。

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ネタとは、本来、生活の糧を意味する。

昨今ネタとは、軽々しく扱われることもあるが、僕たちの存在意義はネタに込められているのだ。

お笑い芸人に限った話ではない。企画会議では「何か良いネタないかな?」という話がしょっちゅう交わされる。寿司屋でも「良いネタ入りましたよ」と大将が嬉しそうに語る。ネタこそ、生きる上で欠かせない。ネタがダメなら、僕たちは飯を食べていくことはできないだろう。

お前のネタは何だ?

そんな風に問われたら、僕は何と答えるだろう。

年の瀬、シビアな戦いを繰り広げた人たちの姿は、本質的な問いを纏っている。華やかなテレビをよそに、今朝は、いつにもまして寒い。