「振り返る」というコンテンツ(ふつうエッセイ #482)

年末の過ごし方は、2種類ある。

その年を振り返るか、その年を忘れるか。

感覚的には忘れる人が大半を占めるような気がする。僕もかつてはそうだったし、ある意味で、忘れる人の方が健全だろうとも思う。

ただ、最近は振り返りをコンテンツ化する動きが増えてきたようだ。読んだ本や鑑賞した映画のベスト10を報告したり、その年にやってきたポートフォリオを披露したり。

内省だけに留まらない振り返りは、「見世物」として風物詩になっている。かくいう僕も、振り返りをコンテンツ化しているひとりだ。

年末になると、いそいそとノートを取り出し、草稿を書き出す。例えば映画に関しては、「あれも観た、これも観た。おっと配信作品はどうしようか?」なんてことを、嬉々として書き出している。とても楽しい。一足先に振り返りしている人の記事を見つけては、自分との差異にふむふむと頷いたりして。酒が手近にあったら最高だ。

考えてみれば、あらゆることがコンテンツに早変わりしている。

神吉晴夫は、「才能も思想も商品だ」と言い切った。だけどその言葉の前には、「好むと好まざるとにかかわらず」という注釈が添えられている。僕が現代風にアップデートするならば、「好むときもあれば、好まないときもあるけれど、才能も思想も商品にならざるを得ない」みたいな感じだろうか。いずれにせよ、その注釈は胸に留めておく必要があるだろう。

本来なら、黙ってノートにでも内省のメモを記せば良いのだ。

だけど、なぜか進んで商品となることを志向する。あわよくば、商品として売り出せることを狙っているからだろうか。いや、それだけではない。「おれはここにいるよ!」と、存在意義を示しているからだ。虚空にマウンティングしているような状況ともいえる。マウンティングはみっともない。それを神吉晴夫が、時代を超えて、注意喚起しているのではないだろうか。

振り返ることを、コンテンツだなんて穿った見方かもしれない。

でも穿った視点から、見える世界もあるはずだ。だったら、どんどん穿ってやろうと思う。真正面からだと見えない情景を、しっかりとキャプチャーしてやるんだ。

見世物としての自分の価値を、とことんまで上げてやろう。これまで、その心意気で482本のエッセイを積み上げてきた。芸人の粋に、負けるわけにはいかない。