立つんだジョー!(ふつうエッセイ #469)

漫画「あしたのジョー」で、丹下段平が矢吹丈に放った台詞「立つんだジョー!」は、もはや原作を読んでいない人でも知っている言葉だ。

少し世代を変えると、漫画「スラムダンク」の湘北高校監督の安西による「あきらめたらそこで試合終了だよ」も同じくらいの知名度といえるだろう。いわゆる「名言」と呼ばれるもので、「擦られた」と揶揄されることもあるが、漫画、ドラマ、映画などで出てきた著名な台詞は、様々なシーンで使い勝手が良い。

さすがにこの時代、仕事で大変なときに「立つんだジョー!」ではコンプライアンス違反に抵触する。でも、コンペ向けの資料を作っていて「ああ、勝てる気がしない」と悩んでいる若手に対して、「あきらめたらそこで試合終了だよ」は、そこそこ文脈に沿うのは確かだ。

・あきらめないで頑張ろう
・君はあきらめるような人間じゃないよ

そのふたつの意味を内包する言葉として、実に使い勝手が良い。

だが、それが相手のスイッチを入れるかどうかは別だ。使い勝手が良い名言は、同じ仕事をするような人たちに興醒めに映ることが少なくない。

安易に名言を使うことの弊害というより、新しく言葉を紡ぎ、伝えようとする努力を放棄していると見做されるのだ。

名言でなくとも、昨今誰もが口にするようになったSDGsやサステナブルなど──それはそれでもちろん重要ではあると思うけれど──結局、「他人事」としてしか響いていないのではないだろうか。使い勝手は良い、だけど、言葉を口にする「あの人」が、本当に目の前の環境破壊を憂いているとは限らない。

グレタさんの言葉は響くのに、「あの人」の言葉が響かないのは、そこに嘘っぽい雰囲気が漂っているからではないだろうか。

SNSの発言が全てではないし、語られない言葉への想像力は持ちたいけれど。「あの人」はどんな言葉を発するのか。「あの人」が思っているよりも、僕たちは耳を傾けようとしている(そして「嘘っぽさ」を感じたらすぐに耳を閉ざすのだ)。

立つんだジョー!

その言葉を拝借できるとすれば、「あの人」に使用権はきっとなくて。

「あの人」の言葉を信じたい人々が、「あの人」を叱咤する思いとして使うべきなのだ。立つんだと。「あの人」に、本当は立ってほしいのだから。