運は「ハコブ」もの。(ふつうエッセイ #445)

運はハコブなり。

明治・大正時代の実業家・安田善次郎が残した言葉だそうだ。

どんな場面で口にした言葉なのかは不明だ。しかし「運とは自然に舞い込むものではない。何かのきっかけによって運ぶ / 運ばれるものだ」といったニュアンスが含まれているのは容易に推察できる。

そもそも「運」という言葉は、フラットなはずだ。

運が良い、運が悪い、というように、その良し悪しは添えられる形容詞や副詞によって初めて決定される。

だが「悪運」という言葉に象徴されるように、「運」という言葉そのものにポジティブな思いが託されていることは結構多い。確かに「運が悪い」を自ら望む人間はいないわけで。運をどのように味方につけるか、古今東西の人間が苦心してきたことだろう。

それにしても、漢字とは面白い。

運。運ぶ。

それぞれ全く違うシチュエーションの言葉だが、同じ漢字で成り立っている。「運を掴む」という言葉に比べると、「運はハコブものなり」という言葉は、ちょっとだけ手離れしているような印象を受ける。手でギュッと掴むのでなく、お盆に載せて運んでくる。「ハコブ」とは、そういった丁重さを帯びた言葉のように思うのだ。

そこには周囲(環境)に対する敬意も顔を覗かせている。人間の力を過信していない。もちろん最大限の努力をすることは前提だろう。だが、「最終的には神さまが決めるのだ」と言っているような謙虚な姿勢が「ハコブ」という言葉に込められているのではないだろうか。

日本には「ありがとう」という感謝の言葉がある。漢字にすると「有難う」となるが、「そこにあるのは当然でない」という意味を持っている。

幸運でいられるというのは、当たり前のことではない。何かによってハコばれるものだ。

そう考えると、自分自身も、幸運をハコブような存在でありたい、あるべきだと思えてくる。誰かに運をハコブ存在になれているだろうか。そのことを自問しながら、1日を清々しく過ごしていく。