名刺と拳銃(ふつうエッセイ #436)

名刺と拳銃には、共通点がある。

登場したら、それぞれ「使用」が期待されることだ。

名刺は、名刺らしきものが現れたら、両者が交換することが期待される。名刺が出てきて、見て見ぬフリはできない。どちらからともなく、できれば気付いた側から「名刺交換させてください」と言うしかない。暗黙の了解、名刺とは、かくのごとく交換するために存在するといっても過言ではない。

(もちろんフィクションの中で、ということだが)拳銃は、発泡されることが期待される。

映画のワンシーンで拳銃が出てきたとする。観客である僕たちは、どこかで「拳銃は発砲されるだろう」と期待する。もちろん拳銃なんか物騒なものは、発泡されないいに越したことはない。「期待する」と書いたけれど、例えば新海誠監督の「天気の子」の場合、観客は「どうにか彼に拳銃を放棄させてくれ」と祈る。主人公の高校生・帆高は精神的に不安定だが、必死に生きようとする姿に観客は共感するからだ。ラストシーンの直前、ついに帆高は拳銃を向けてしまうのだが、「うわああ」という感想と共に、最後にどうなるのかソワソワするというエンターテイメントになっている。

フィクションにおいて拳銃は十中八九発砲されるけれど、稀にそうでない場合もある。拳銃は発砲されるという期待をフリにして、発砲に至らせないという技法だ。だが、その技法を使うのであれば、それなりの説明が必要になる。ロジカルに拳銃を放たせない理由を練り上げなければ、不思議なことに、観客は納得しないのだ。

名刺と拳銃。

出てきたら最後、どちらも使用が前提となって、公共の場で暗躍する。僕たちは名刺を交換するのか、それとも名刺に交換されているのか。

真偽のほどは、名刺だけが知っている。のかもしれない。