どんなエンディングが描かれるか。(ふつうエッセイ #426)

今泉力哉監督の「窓辺にて」が、今週末から映画館で公開されている。

時間を見つけて鑑賞するつもりだが、その前に、Netflixで今泉さんの過去作品をチェックすることにした。これまで、ちょっとした理由で、僕は今泉監督の映画が「合わない」と思っていた。だが今は、愚かな決めつけだったと反省している。

それくらい、若葉竜也さんが主演を務めた「街の上で」が、素晴らしい青春群像劇だったのだ。

一般的に、映画の良さを決めるポイントはいくつもある。細かい点を挙げればキリがないけれど、「どんなエンディングが描かれるか」というのは大事なポイントのひとつだ。必ずしも、終わり良ければ全て良しではない。しかし、エンディングの良し悪しで作品への思い入れがグッと上がることもある。(「こんな結末で良いのか」と賛否両論を巻き起こすという意味ではなく)

ほんの些細な工夫が、映画の良さをギュッと締め上げる。

それは心地良い余韻として、あるいは思わず「おお」とため息が漏れるような。「街の上で」におけるエンディングの描き方は、観ている側も笑ってしまう素敵な終わり方だった。映画は終わるが、映画の中の登場人物たちは、また暮らしが続いていく。フィクションだけど、全く別の世界線が続いていくような感覚になれるのだ。

そして映画におけるエンディングの心地良さは、現実の社会におけるメタファーにもなり得る。そもそもどこを「エンディング」として捉えるかは、当人次第だ。分かりやすく、卒業や退職直近のタイミングをエンディングとして捉えても良いけれど、別にそれをエンディングにすべきというディレクションがあるわけではない。今、この瞬間をエンディングとして切り取ったとき、そこに心地良さがあるのかどうか。それを問うてみても面白い。

見えない、誰かが当人の人生を映画にしようとしている。切り取るのは、その「誰か」であり、当人はコントロールできない。

そうしたときに、心地良いエンディングが描かれるか。スムーズにエンドロールを迎えることができるか。そのイメージは、どこまでも無限に広がっていく。