「すごい」が語るもの(ふつうエッセイ #411)

言語化は大切なことだ。

学びデザイン・荒木博行さん、COTEN・深井龍之介さん、Takram・渡邉康太郎さんによるPodcast「超相対性理論」の中でも、「言語化できないものは思考できない」ということを話していた。

考えることは、想像することでもある。人の痛みを想像できなかったり、少し先の未来を思い描けなかったり。自分の感性・考えを、定期的に言語化していく習慣を引き続き持っていたい。(もちろん言語化することで思考が固定化するというデメリットもある。場合によっては言語化させず、少し頭の中でゆらゆらと思考を揺らしておくというのも一手だ)

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さて、「すごい」という言葉。

「やばい」もそうだが、色々なところで指摘されている通り、解像度が低い一方で、中毒性が高い性質を持つ。一度使えば、便利という誘惑に何度も誘われてしまう。何においても「やばい、やばい」と口にしてしまう人がいたら、一歩踏み留まって、「何がやばいのか」を考えてほしい。

何度でも使いたくなってしまうのは、「すごい」「やばい」が、あらゆる形容詞を包んでしまうからだ。

絶景を見ても、すごい。ハワイに到着したら、やばい。近所のハンバーガー屋がすごい。メタバースって、これからやばい可能性あるよね。

そんな感じだ。

でも、これらの言葉が何を意味するか分からない。ハンバーガー屋さんの何がすごいのだろうか?味なのか、接客なのか、店の雰囲気なのか。それを深掘りしてくれる友達がいるならまだしも、そういった丁寧なコミュニケーションを図るシーンばかりではあるまい。どんどん「すごい」「やばい」の波にのまれていく。

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小説家は、作品の中で「すごい」「やばい」といった表現を使わない。

読者と正確なイメージを共有するための言葉として、全く意味をなさないからだ。漫画と違って小説は、言葉だけで、作家の頭の中を読者と共有しなければならない。絵がないのだ。言葉だけで、作家が想像する世界を描き切る必要がある。

なぜ、相手とイメージを共有しなければならないのか。

それは、ひとりでは生きていけないから、というのが最もシンプルな理由だろう。個人主義は格好良い。しかし、誰だって、誰かの助けを借りながら生きている。貸し借り、というと古いかもしれないけれど、何とかやっていくために恩を売り、ときどき、買ったりしているのだ。

そういった貸し借りは、なるべくしたくはないのだけど。集団生活で避けては通れない。だからせめて、良い貸し借りになったらと思う。「これはこうで」と貸す(借りる)理由を正確に伝えた方が良い。それこそメタバースに頼らない方が良い。

「すごい」が語るものは、ざっくりそこに何かがあるということだ。

表現とは、思っている以上に大きな可能性に満ちている。