「顔たち、ところどころ」というドキュメンタリー映画を観た。
88歳の映画監督アニエス・ヴァルダと、34歳の写真家、アーティストのJR。親子、いや祖母と孫ほど歳の差が離れているふたりが、フランス各地を巡るロードムービー。異なる分野で異彩を放つふたりのやりとりは、アーティスト論のようなものはほとんどなくて、意外なほど人間の内面に触れる会話が多かった。
フランス各地を巡り、そこで出会った人たちの写真を撮る。写真を大きく引き伸ばし、屋外の建物や通りに貼りつける。JRアートの特徴を本作も引き継いでいるのだが、フランスの田舎の人たちと交流し、写真を撮り、写真を貼る。その繰り返しの中に、アートの本質を垣間見ることができる。
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交流した人々の中に、山羊の畜産家たちがいた。
彼らが飼うほとんどの山羊には角がないことに、ヴァルダとJRは気付く。聞けば、ケンカによる損傷を避けるために、山羊が小さいときに角を焼くのだそうだ。
「20秒で済むよ」と畜産家は語るが、ヴァルダは納得しない。何度も「なぜ角を焼くのか」と訊ね続けていた。
ひとりの畜産家は「自然に生えるのだから自然のままに。取る気はない。角のある自然の姿で飼うべきね。闘うのは本能、人間と同じよ」と言った。物語の中で、取り立てて目立つわけでもないのだが、全部で10分弱のシーンが妙に心に残った。
ケガをするから角を焼く。ケガをしたら期待通りの搾乳はできず、搾乳ができないと生計を立てることが困難になる。だから角を焼くのだと、堂々巡りのロジックがそこにはあるけれど、ある種、人間の支配性を象徴する言葉のように感じた。もちろん僕だって生きていかなくちゃいけないし、そのために、自然に対して支配性を発揮しなければならない場面もたびたび遭遇している。だから、畜産家の行為を断罪することはできない。
角を焼く。役に立たないからといって。
その意味を、もうちょっと深く考えたいと思ったところで、映画は終わった。ちなみに出演したヴァルダは2019年に亡くなった。今ごろ、天国でジャン=リュック・ゴダールと再会できているだろうか。それとも邂逅することなく、心の交流を図っているのだろうか。